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SPRING WALTZ 14 - ドラマで描かれなかった空白の15年-

「お母さん、ただいま帰りました。」
「お帰り、チェハ。ちょうどケーキが焼けたところなのよ。今お茶をいれるから、ちょっとそこに座りなさい。」
  学校から帰って来たチェハの声に、台所にいたチスクは仕事の手を止めた。そして手早くお茶の用意をすると、チェハと向かい合って腰を下ろした。
「今日、街でばったりブッフバルト先生にお会いしたのよ。お前、先生にそろそろ大きなコンクールに挑戦するよう勧められてるそうじゃないの。先生はね、こういうものは無理強いするもんじゃないから、まだあまり強くは言ってないけど、どうも本人が煮え切らないって。それでご家庭でコンクールや将来のことを話し合われたことはありますか、って聞かれたんだけれど、お前どう思っているの? ウィーン国際ピアノコンクールは来年の夏だし、ワルシャワ国際ピアノコンクールは再来年よ。コンクールは他にもたくさんあるけれど、大きいものは数年おきにしかないから母さんも気にしてはいたの。」
  チェハがフィリップと一緒にドイツのコンクールに出たのは一年前のことだった。その時は二人とも入賞したのだが、その後どういう訳かチェハはスランプに陥ってしまい、なかなかそこから抜け出せなかった。思うような演奏ができなくて数ヶ月間悶々として過ごしたチェハを、チスクはただ見守るしかなかった。秋になってようやく立ち直りの兆しが見られたのだが、チスクがコンクールのことを持ち出してもチェハは「今は考えたくありません」と言うばかりで、彼女はずっともどかしい思いを抱きながらも「本人に任せておけ」とミョンフンに止められて、それ以上は口を出せずにいたのだ。そんな時に今日の教授の話があったので、チスクはいても立ってもいられなくなってチェハの帰りを待っていたのだった。
「コンクールですか…」
そう言って、チェハは一息おいた。
「受けなきゃいけないことはわかっていますし、考えてはいます。でも来年のウィーンのコンクールか、再来年のワルシャワか、まだ決めてないんです。」
「何も迷わなくても、お前、両方受けたっていいんでしょう?」
「両方、ですか?」 
「そうよ、一生に一つしか受けられないものじゃないんだし、ウィーンのコンクールの後、ワルシャワまでは一年以上あるんだから十分準備できるじゃない。お前、ショパンは得意なんだから。ブッフバルト先生は大学に入ってからのお前の進歩を考えたら、ウィーンのコンクールで本選に進める可能性は十分にあるって仰ったわよ。ずっとウィーンのコンクールで審査をされている先生がそう仰るんだから、もっと自信を持ちなさい。とにかく先生によく相談なさい。父さんも母さんもお前のためならできる限りの応援はするからね。」 

  チスクの言葉に、チェハは「わかりました。ありがとうございます。」と素直に頷き、自分の部屋に引き上げた。
  大学を卒業した後、演奏家として生きていくためには大きなコンクールに入賞する必要があることはチェハにもよくわかっていた。だが努力さえすれば入賞できるというものではなく、コンクールではあくまでも他の参加者との比較で順位が決まるということもよくわかっていた。だからなるべく自分が優位に立てそうなコンクールを選んだ方が良いと思うものの、課題曲はバロックから現代曲まで広範囲にわたるが、自宅からコンクール会場に通えるウィーンをとるか、慣れない土地ではあるがワルシャワに行って得意のショパンで勝負を賭けるかで、チェハはずっと心を決められずにいた。音楽という数字で計りきれないデリケートなもので他人と競うことが好きになれないもの事実だった。初めて出たコンクールで思いがけず入賞した時には自分の演奏が認められたことを素直に喜べたが、昨年のコンクールではコンクールそのものに疑問を感じてしまったのだった。しかしこれから演奏活動をしていくためにコンクールは避けては通れない道だった。
  チェハがミョンフンたちの息子になってもう七年が過ぎていた。この七年間、ミョンフンは約束どおりチェハに何不自由ない暮らしを与え、学校にも行かせてくれた。ピアノを始めてからは練習のための十分な環境を整えてくれた。実の子同様に育ててくれた二人にチェハは心から感謝していたが、それだけにいつまでも世話になるわけにはいかない、少しずつでも自分の力で生きていけるようになりたいとチェハはずっと考えていた。
「そろそろ決めなくちゃ。時間は待ってはくれないんだから。」
チェハは自分に言い聞かせるように呟いた。

 

  次のレッスンの後、チェハはブッフバルト教授にコンクールのことを相談した。教授は得意のショパンで勝負したいというチェハの気持ちを尊重しながらも、ウィーンのコンクールに出る利点を話してくれた。
・ 演奏家として幅広いレパートリーを開拓する良いチャンスになること。
・ 自宅から通えて、好きなだけ練習ができること。
・ 生活環境を変えなくてすむ上、万が一体調を崩した場合にもすぐに対応できること。
・ 本選に進めば協奏曲でオーケストラとの共演も経験できること。
・ もし上位入賞できれば、自信を持って翌年のワルシャワでのコンクールに臨めること。
これらの点を踏まえて、ワルシャワを目指すにしてもまずは来年のウィーン国際ピアノコンクールに出ることを教授は勧めてくれた。
「確かに君は古典が得意だとは言えないし、確かに君のショパンは素晴らしい。しかしショパンだけでは演奏家としてやっていかれないのだから、もっと貪欲に何にでも挑戦した方がいい。それに場数を踏んでおいて損はないよ。特に協奏曲は本命のコンクールまでにきちんと取り組んでおいた方がいい。オーケストラと合わせることに少しでも慣れておかないと、そこで自滅する人は多いからね。
今年もまた五人組のコンサートをやるなら、今度はショパン以外の曲を取り上げなさい。必ずコンクールにも役立つよ。」

  ブッフバルト教授の勧めに従い、チェハはまず翌年のウィーン国際ピアノコンクールに出ることを決めた。そのことを聞いたフィリップは
「へえ、君も来年のウィーンのコンクールに出るのかい?」
と、少し意外そうに聞き返した。
「ああ。再来年のワルシャワにしようか随分迷ったんだけどね。母には両方受けろって言われて、ブッフバルト先生にはワルシャワに出るとしても場慣れしておいて損はないし、レパートリーも広げられる、って言われたし。」
「じゃあ急いで準備にかからなきゃ。コンクールまで一年ちょっとしかないんだぞ。課題曲はもう決めたのか?」
「これからだよ。ほとんどの参加者は、君みたいに早くから出ると決めて準備してるんだ。僕なんか出遅れもいいとこだ。だから「入賞」なんて欲は出さずにやるよ。先生にはとにかく本選に進むことを目標にしろって言われたよ。そうしたら協奏曲も経験できるからって。」
「確かに本選で協奏曲を経験するのは大事かもしれないよ。僕も先月のコンクールで初めてオーケストラと合わせたけれど、難しかった。ピアノ二台でやるのとは訳が違ったよ。」
「お前、また『ルービンシュタイン弾き』やったんだろ?」
「いや、そんな余裕なかったよ。ステージの上ではオーケストラの聞こえ方が違うんだ。CDで聴くみたいに全体がバランスよく聞こえてこないから、聞いて合わせようと思ってても肝心のところが聞こえないと慌てるよ。だからウィーンまでにもう一度、本選が協奏曲のコンクールに出ておこうと思ってる。君は何度か市民オケのアルバイトしてたよな。」
「二回だけだよ。それもステージの上で合わせたわけじゃない。でももう一つコンクールを受ける余裕はないから、僕はウィーンまでは他には出ないで練習するよ。ところで、ハンスやゲオルクたちとのコンサートはどうする? 僕はやるつもりだったけど、お前もう一つコンクールに出るんなら厳しくないか?」
「いや、大丈夫だよ。もう準備の段取りはわかっているから。でも一度みんなときちんと相談しないとね。ゲオルクもウィーンを受けるって言ってたよ。ハンスやジョンもそれぞれコンクールのことは考えてるんじゃないかな。」

 

  しばらくして、一緒にコンサートを開く五人が集まった。
「ウィーンのコンクールに出るのがゲオルクとチェハと僕。ハンスとジョンのコンクールの予定は?」
「僕は再来年のブリュッセルに出るつもり。ジョンは当面予定なし、だよな。」
「目下思案中で、絞りつつあるところだけど、来年のウィーンは考えてないし、差し当たりコンサートの準備は大丈夫だよ。だから、また会計もやるし、ホールとの交渉も今度は僕がやるよ。コンクール組に負担がかかり過ぎないように分担してみよう。」
「お前、本当にいいやつだよなあ。」
「そう言えばチェハとフィリップ、今度は連弾もしたら、って去年話してたけど、どうする? 二人ともウィーンのコンクールに出るならそんな余裕はないかい?」
チェハとフィリップは一瞬顔を見合わせたが、フィリップが答えた。
「いや、今までにもいろいろやってきたから、その中から選べば大丈夫だよ。ブラームスのハンガリー舞曲とかさ。」
チェハは無言のまま頷いた。
「でもチェハはたいしたやつだよな。フィリップなんか弾きながらどんどんアレンジしてしまうんだから、俺なんかとてもついていけないよ。世界広しと言えどもフィリップに合わせられるのはお前だけだよ。」
  そんな話をしながら五人はてきぱきとコンサートの手はずを整えた。同じメンバーでの二度目のコンサートなので準備は順調に進み、五人はそれぞれの演奏曲やコンクールでの課題曲の練習に忙しい夏を過ごした。

 

  夏休みが終わってしばらくたったある日のこと、チェハは大学でフィリップのガールフレンドのユリアーナに呼び止められた。今まで顔を合わせたことは何度もあったが、特に言葉を交わしたことのなかった相手から急に声をかけられて、チェハは何だか嫌な予感がした。
「僕に何か?」チェハの問いかけに、ユリアーナはすがるように言った。
「最近、フィリップがおかしいのよ。何だか心ここにあらず、って感じで、私と一緒にいても楽しくなさそうだし、話しかけても生返事ばかりなの。電話にも出てくれないことがあるのよ。フィリップって飽きっぽくって、ガールフレンドともすぐ別れちゃうって、付き合い始めた頃に友だちから聞いてたんだけど、もう私のこと嫌いになったのかしら…。クリスはフィリップの親友だから、何か聞いてないかと思って。」
「いや、僕もこの数日はフィリップとはゆっくり話してないんだ。」
「そう……。」
「様子が変わったのはいつから?」
「三日ほど前よ。」
「これから一緒に練習することになってるから、様子を見てみるよ。じゃ。」
「お願いね、クリス。」
  フィリップとうまく行かなくなった女の子がチェハに泣きついてきたことは以前にもあって、チェハは正直なところ閉口していた。泣きつかれたところでどうにかしてやれるものではなく、既にフィリップの気持ちは冷めてしまっているのだ。フィリップが何故ガールフレンドと長続きしないのかはチェハのあずかり知らぬところであり、いくら親友でもチェハは彼の交友関係にまで踏み込みたくはなかった。
  チェハが練習室に行ってみると、フィリップはもう到着していて先に練習を始めていたが、チェハに気付くと黙って椅子をずらしてチェハのために場所を作った。そしてチェハが腰を下ろすと二人は互いに合図を送って弾き始めた。曲はブラームスのハンガリー舞曲第六番だった。それは今までにも何度も引いた二人のお気に入りの曲だった。それなのに弾き始めて間もなく、チェハは何とも言えない違和感を覚えた。何かが違う。いつものフィリップならこんな弾き方はしない…。
 チェハは弾きながらフィリップの演奏を分析した。
「音は正確。リズムもテンポも正確。でもその“正確さ”がおかしい。フィリップらしい“揺れ”がない。自由闊達な伸びやかさも遊びもない。何よりも演奏を全く楽しんでいないし、他のことに気を取られているのか、演奏に集中すらしていない。」
   第六番を弾き終わると、チェハはやはりコンサートで演奏する予定の第一番も弾こう、と言ってみた。フィリップは素直に応じたが、第一番の演奏にもいつものフィリップらしさは見られなかった。フィリップはどうしたというのだろう。いつもは楽しい連弾なのに、この日は弾けば弾くほど違和感が増してきて、チェハは失望すら感じていた。
   二曲弾き終えた時、チェハは
「何かあったの、フィリップ?」と努めて冷静に尋ねた。
「いや、別に。どうして?」
「いつもの君らしくないからさ。具合でも悪いのか?」
「いや、何ともないよ。」
「じゃあ、今日は気分が乗らないのかい?」
「そうでもないけど…。そんな風に見える?」
フィリップの口調はどこか投げやりで、それがチェハを一層イライラさせた。
「ああ、明らかにいつもの君じゃない。こんな練習ならいくらやっても無意味だよ。今日はもうやめにする? これでは時間の無駄だ!」
「ああそうかい。悪かったな。貴重な時間を無駄に使わせて。だったら帰れよ。帰って好きなだけ練習すればいいだろう。俺のことなんか放っておけよ!!」
   突然椅子から立ち上がって大声でまくし立てるフィリップを呆れたように眺めると、チェハは黙って席を立った。たとえスランプに陥ったとしても、フィリップがあんな風に周囲に八つ当たりすることは今までになかった。いつもはジムに行ってうんと汗をかいたり、ジョギングをしたりして体を動かすことが最良の気分転換になるのだと口癖のように言うフィリップなのだ。ぞっこんほれ込んだガールフレンドに振られたのならともかくも、今回はユリアーナに振られたわけではない。本当に一体どうしたというのだろう。チェハには訳がわからなかった。

 

  その日の夕食後、チェハはフィリップに呼び出された。昼間とは打って変わって沈んだ口調の電話を受けてチェハが二人の行きつけの店に急ぐと、フィリップは一人で飲んでいた。
「昼間はすまなかった。謝るよ。」
「何があったんだい?」
チェハはフィリップの隣に腰を下ろすと、素直に謝るフィリップの目をじっと見て尋ねた。「こんなことで動揺する自分が情けないんだけどさ」
とフィリップはそこで一呼吸おいた。
「父さんが離婚したんだ。」
「離婚……?」
「そう。で、俺に帰って来いって言うんだ。今になって、だぞ。赤ん坊が生まれるからって俺のこと寄宿舎に放り出したくせに、奥さんに子どもを連れて出て行かれて、自分が寂しくなったから戻って来いなんて、どの面下げて言えるんだよ。何だかバカらしくなってさ……。」
   チェハは返す言葉が見つからなかった。フィリップと初めて会った十五歳の頃、フィリップは明るく振舞おうとしながらもオドオドと周りに気を遣うか細い少年だった。寄宿舎でも学校でも自分の居場所が見つけられずいじめられていたのだが、フィリップは歯を食いしばって負けまいと頑張っていた。チェハと友だちになったことでいつしかいじめられることもなくなり、寄宿舎や学生寮という不自由な環境での暮らしだったがフィリップは勉強にもピアノにもスポーツにも人一倍打ち込んできた。帰るべき家はなく、唯一の頼みの綱は年老いた祖母だけだった。フィリップだって本当は寂しかったはずなのに、それを表面には出さないで頑張ってきたのだ。今さら父親と暮らすという選択肢はフィリップの頭にはなかったに違いない…。
「お父さんには何て言ったの?」
「とんでもない、って言ったさ。大学生になったら家を出て暮らしたってちっともおかしくないんだ。家に置くべき時期に放り出しておいて、今さら何だよ、って。どうせまた新しいパートナーが見つかったら、俺のこと追い出すんだろう? そんな風に振り回されてたまるか、って言ってやったさ。」
  話しているうちにフィリップは父にこう言い放った時の気持ちの高ぶりが戻って来たかのように声を震わせた。
「父さんはね、罪滅ぼしがしたいって言うんだ。でもどうやって? いじめられた時の悔しさや寂しさを今さらどうやって償えるって言うんだよ。僕の気持ちなんか考えもしないで…。誰のせいで、僕があんな思いをしたと思ってるんだ。時間はもう戻らないんだ。父さんと母さんと三人で暮らした頃にはもう戻れないんだ。今さら父さんと暮らしたってうまくいきっこないよ。」
  チェハが黙ってフィリップの話を聞いているうちに、フィリップは酔いつぶれて眠り込んでしまった。ここ数日眠れぬ夜を過ごしたのだろうか、フィリップの眠りは深く、容易に目を覚ましそうになかった。チェハは苦しそうに顔を歪めて寝入っているフィリップをこのまま学生寮に送り届ける気にもなれなくて、タクシーに乗せて家に連れて帰った。そしてどうにかこうにかフィリップをベッドに寝かせると、物音に驚いて出てきたミョンフンとチスクに事情をかいつまんで説明した。
「そうか、そういうことか。」と、ソファに腰を下ろしたミョンフンは頷いた。
「フィリップはお父さんのために寄宿舎に入ったんだものね。自分の我慢が報われなかったばかりか、今になって帰って来い、では怒りたくもなるわよ。早く一人前になって自分の家庭を持ちたいんだっていつか私に言ってたもの。」
「でもフィリップのお父さんも悪い人じゃないんだ。前に一度オフィスに電話をもらったことは話しただろう? フィリップのお母さんが亡くなってから何もかもがうまくいかなくなってしまった、と言っておられたよ。はっきりとは仰らなかったが韓国の奥さんの実家では相当ひどい仕打ちを受けられたようだった。フィリップのためにも新しい家庭を、と考えて再婚されたことが結局フィリップを家から出すことになってしまって、フィリップにすまないと思うことがかえって親子に溝を作ってしまったんだろうな。どちらも悪くないんだ。ただ幸せになりたいと願っただけだったんだがなあ…。」
「明日はフィリップにおいしい朝ごはんを食べさせてやりましょう。さあ、チェハももう遅いからお休みなさい。疲れたでしょう。」
  チスクに促されて自分の部屋へと引き上げたものの、チェハはなかなか寝付かれず、ベッドの中で自分を捨てたチョンテのことを思った。チョンテに置き去りにされた子ども時代の夢をチェハは今でも時おり見ることがあった。その時の不安と恐怖は今も鮮明に思い出され、汗びっしょりで飛び起きては父に対する憤りと悔しさにチェハは人知れず涙を流した。フィリップも自分も子どもの頃にはもう戻れない。フィリップは母を亡くしたことで人生が大きく変わってしまった。でも自分が生まれて初めて手にしたささやかな幸せを打ち砕いたのは父なのだ。フィリップはお父さんが「やり直そう」って迎えに来る分、幸せだ。僕の父さんなんか僕を迎えに来るはずはないんだから…。
  心の底から父を憎いと思うチェハだった。しかし父を憎いと思うその一方で、本当は自分が父を求めていることには、まだ気付いてはいなかった。

 

  翌朝、目を覚ましたフィリップは恐縮しきりだったが、チスクが用意した朝食を何とか平らげ、礼を言って帰って行った。その日の午後、大学の授業が終わった後で、フィリップはしみじみとチェハに言った。
「昨日は本当にすまなかったね。おじさんやおばさんにまで面倒をかけてしまって…。でも君に何もかも話せて楽になった。自分は一人じゃないんだと思ったよ。こんなこと話せるの、君だけさ。平気で泊めてもらえるのも君んちだけだ。ありがたいと思ってるよ。」
「いいさ、気にするな。」
「吹っ切れてみると、どうしてあんなことでクヨクヨしてたんだろうって思えてきたよ。何だか元気が出てきたから、もう泣き言は言わないで頑張るよ。コンサートもコンクールも。」
「ああ。」
チェハはホッとした。そして別れ際に付け加えた。
「ガールフレンドに連絡してやれよ。心配してたから。」
フィリップはニコッと笑って、頷いた。

 

 それからのフィリップは程なく普段の自分を取り戻し、また練習に打ち込むようになった。秋の五人組のコンサートは大成功だった。それぞれが一年間の成長を披露できただけでなく、初めてステージに乗せたチェハとフィリップの連弾では、フィリップが乗りに乗って即興アレンジを次々と繰り広げたのにチェハが最後まで見事に合わせきって大評判になった。
「今年は立ち見のお客さんもあったし、収入も去年以上だよ。やっぱり頑張ればちゃんと評価してもらえる、ってことだね。」
  聴衆が箱に入れてくれたお金を数えながら、ジョンが言った。
「また一年間それぞれ頑張って、来年もできるといいね。『楽しみにしています』って書いてくれている人もたくさんいるよ。」
フィリップはアンケート用紙を見ながら言った。
「来年はもう少し広いホールを探そうか。立ち見じゃ気の毒だし。」
「すごいねえ。じゃあ、ウィーンコンクールの三人には頑張って入賞してもらわなきゃ。コンクール入賞者の演奏が聞けるとなると、お客さんは一気に増えるよ。」
  ハンスがチェハ達三人を見ながら言うと、ゲオルクは、
「コンクールまであと半年しかないんだぜ。責任重大だなあ。」と深刻な表情を浮かべて見せた。
  その日の五人はコンサートの成功のお陰でとても和やかだった。でもコンクールでは聴衆に喜ばれるだけではいけないことをチェハもフィリップも感じていた。良い演奏を心がけるのはコンサートもコンクールも同じだが、これからの半年はより厳しい時間になる。二人は心の中でそれを覚悟しながら、この夜だけはみんなとコンサートの余韻に浸っていた。

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SPRING WALTZ 13  -ドラマで描かれなかった空白の15年-

 五人のコンサートを終えた翌週のこと、チェハとフィリップは作曲科のロットナー教授の研究室に向かっていた。
「コンサートにかまけて、だいぶ間があいてしまったね。二週間ぶりかな?」
「いや三週間ぶりだよ。昨日連絡を入れたら先生呆れて笑ってたもん。」
「真面目にやらなきゃ愛想尽かされる。急ごう。」
 その年の春から、二人は作曲科のロットナー教授に授業とは別枠で時々作曲や編曲を教わっていた。ピアノ科で受講する音楽理論の講義でも彼らは作曲に必要な知識を学んでいたので、教授は二人に講義では扱っていない理論も教え、作曲や編曲の課題を出してくれた。そして二人はその課題を仕上げると教授に見てもらっていたのだ。
 三週間ぶりに現れた二人を教授はにこやかに迎え、彼らのコンサートが好評を得たことを喜んでくれた。
「私も行きたかったんだが、あいにく他に予定が入っていてね。何にしてもいろんなことに挑戦してみるのは良いことだよ。さあ、今回はどんな作品を持って来たのかな?」
教授は二人の作品を受け取ると、それぞれに目を通し、コメントをしてくれた。同じメロディーでも編曲する人によって曲は様々に姿を変えるものだが、チェハとフィリップの作品も元は同じメロディーなのに、たいていは大きく雰囲気が違っていた。二人は時には一緒に編曲に取り組み、お互いの音楽観をぶつけ合いながら作品を書き上げることもあった。この日も教授はそれぞれにアドバイスをした後、二人に新しい課題を与えて、次回までにピアノ曲にしてくるよう言った。手渡された楽譜を見た瞬間、チェハははっと息を呑んだ。それは、あの ”CLEMENTINE” だった。もう何年も歌ってはいなかったが、決して忘れることのなかったそのメロディーを目で追うチェハの脳裏に、懐かしくも辛い、辛いけれど彼にとって何よりも大切な思い出が次々に浮かんできた。
「おい、チェハ。チェハってば! 何をぼんやりしてるんだよ?」
 フィリップに肩を叩かれて、チェハは我に返った。
「いや、今度はどんな風にアレンジしようかって考えてたんだ。」
「何だかもう作り始めているみたいな集中力だね。また一緒にやる?」
「いや、今度は一人でやってみたいんだ。いいかな?」
「もちろん。じゃあ、頑張ろう。」

 

 フィリップと別れて家に帰る間も、チェハの足は宙を飛んでいるようだった。どうして今までこれを思い出さなかったんだろう。どうして今まで自分の “CLEMENTINE” を書くことを思いつかなかったんだろう。心の中でウニョンを思い、ウニョンに詫びるだけでなく、自分の音楽を彼女に捧げることもできたのに…。ウニョンを思うと申し訳なくて辛くって、もしかしたらチェハは無意識のうちにこの曲を心の中で封印していたのかもしれなかった。でも思いがけず ”CLEMENTINE” の楽譜を見た今、長い間閉じ込めていた分、ウニョンへの思いが胸に溢れ出してきたかのように思われて、チェハは家路を急いだ。

家に着くと、チェハはピアノの前に真っさらの五線紙を持って来て腰を下ろした。そしてそっと鍵盤を押さえて、最初は旋律だけを何度か繰り返して弾いて、それから少しずつ和音を加えていった。自分のこれまでの人生で唯一幸せだったと思える日々を共に過ごした女の子。自分のすべてを受け入れ、優しく包んでくれた天使のような女の子。どんなことをしても守りたかった大切な妹。彼女に捧げるのにふさわしい曲にできますように…。
チェハはウニョンの明るい笑顔を思い浮かべ、懐かしい思い出を振り返りながら何通りものアレンジを試した。そして丹念に音を紡ぎ、何度も何度も書き直して、チェハは数日後にようやくその曲を完成させた。それは何年もの間心の奥底に秘め続け、誰にも話したことのなかったウニョンへの愛おしさ、懐かしさのこもった優しい作品になった。
「あら、今回は随分手こずっていたようだけど、やっとできたの? なかなかいいわね。でもちょっとおとなしすぎるんじゃない? もっと華やかな感じにはならないの?」
 部屋をのぞきに来たチスクが言った。
「いいんですよ。」
と、チェハは静かに言った。「いいんですよ、これで。これはウニョンの曲だから。あの小さいウニョンに華やかな曲は似合いません。」チェハは心の中でそう呟いた。「フィリップがどんなに素晴らしい曲を作ってきても、それはそれで構わない。この曲は僕とウニョンとの大切な思い出なんだから。」

 

 翌週、チェハはその作品をロットナー教授に提出した。
「今回はまた可愛らしくて優しい曲を作ってきたもんだね。なかなかいいよ。よく書けてる。フィリップのは勇壮な行進曲風の変奏曲だね。これも力作だ。君たち、なかなかたいしたもんだよ。」 教授は二人の作品を添削して理論上の注意を与えた後、それぞれの作品をこのように評してくれた。
 その日の帰り道、チェハは町はずれの小さな教会に立ち寄った。礼拝堂の片隅にピアノがあり、礼拝堂が空いている時には自由に弾かせてもらえることを知っていたからである。誰もいない礼拝堂で、チェハはピアノの上にウニョンにもらった虹の貝殻を置き、自分の ”CLEMENTINE” を弾いた。このメロディーに乗って自分の思いがウニョンに届きますように、そう心の中で祈りながら何度も繰り返して弾いた。ウニョン。もう一度会いたかった。ウニョンに手術を受けさせたくて、ウニョンに元気になってほしくて自分は韓国を出たのに、ウニョンとの約束も守れず、一人で死なせてしまった。ごめんよ、ウニョン。ピアノを弾くチェハの目にウニョンの可愛らしい笑顔や楽しかった思い出が次々に浮かんできて、チェハはいつの間にか涙を流しながら弾いていた。誰もいない礼拝堂に響くメロディーは高く高く天に昇って行くようだった。

 

 それから数日後の夕方のことだった。授業を終えて家へ帰ろうと歩き始めたチェハは、誰かに呼び止められて振り返った。そこには一人の女子学生が立っていた。
「あなたは確か…。」
「三年生のマリア・グラフよ。先日のコンサート、聴かせてもらったわ。君に少し聞きたいことがあるんだけど、お時間いいかしら。」
「はい、あの、どんなことでしょう?」
「ここでは何だから、どこかに入りましょう。」
 そう言うとマリア・グラフは歩き出した。チェハは突然のことに訳がわからず、また女性と二人で町を歩くのも初めてだったので、途惑いながら付かず離れず付いて行った。二人は大学の近くのカフェ “Lindenbaum” に入って、向かい合わせに座った。
「あの、お話って…。」
と、チェハが言いかけるのをマリアは遮った。
「ユン・ジェハ君の噂は以前から聞いていたのよ。君だけじゃなく、先生方の話によると今の二年生は私たちよりも実力のある人が多いんですって。」
「は、はあ…。」
「特に君はショパンの名手だって評判よ。フィリップもハンスも実力があるって聞いているわ。だから君たちがコンサートをやるって聞いて出かけて行ったの。」
「ありがとうございます。」
「確かに噂どおり素晴らしかったわ。何て言うのかしら、言葉ではうまく表現できないんだけど、君の演奏はね、心にしみてくるのよ。深い悲しみが伝わってくる、とでも言うのかしら。」
「は、はあ…。」
「それで、あんなに見事な演奏をするユン・ジェハってどんな人だろうと思って会いに来たの。」
「……。」
 チェハはどう返事をすればよいのか分からず、マリア・グラフの顔を見つめた。マリアは知的な整った顔立ちをしていたが、かなり勝気そうにも見え、チェハとしては苦手なタイプだった。
「そんなに困った顔をしなくてもいいじゃない? 君の演奏に感心して、わざわざ会いに来てるのに。無口だって聞いたけど、本当にしゃべらないわね。」
「無口なのは生まれつきです。」
 チェハはやっとの思いで、そう言った。マリアの探るような目つきはチェハにとって苦痛以外の何ものでもなかった。
「あの、お話はそれだけでしょうか?」
「何、言ってるの? まだ何も聞いてないわよ。私は君がどんな人か知りたいの。どうしてあんなに素晴らしい演奏ができるのか、知りたいのよ。」
「どうして、と言われても…。僕はいつも自分の思うように弾いているだけです。説明なんてできません。」
「ひと言で説明してくれ、なんて言ってないわ。時々お茶でも飲みながら、話さない? その中でお互いに知り合っていけばいいじゃない。二年生の何人かに聞いてみたけど、今お付き合いしている人はいないんでしょ? もしかして大失恋でもしたのかしら。だから、あんなにステキな演奏ができるわけ?」
 そういうことか、とチェハはゲンナリした。マリアと付き合うなんて、とんでもない。
「すみませんが、その件はお断りします。そんな気持ちにはなれませんので。」
 そう言うとチェハは席を立って、振り返りもせず外へ出た。何だか心の中に土足で踏み込まれたようで、気分が悪かった。
 急ぎ足で歩き始めた時、チェハの携帯電話が鳴った。フィリップからだった。
「チェハ。今どこにいる?」
「Lindenbaumの前。」
「誰かと一緒?」
「いや。これから帰るところ。お前は?」
「学校の図書館の前。ちょっと話があるんだけど、こっちへ来られる?」
「すぐ行く。」
 フィリップは図書館の前で震えながら待っていた。二人は談話室に移動して腰を下ろした。
「さっき、チェハがピアノのレッスンに行ってから三年生のマリア・グラフに声をかけられたんだ。何だか君に興味を持ってるみたいだったけど、彼女あんまり評判良くないから気になってさ。それを君に話しておこうと思って、授業が終わってすぐ電話したんだ。」
「手遅れだよ。今まで捕まってたんだ。」
「もう行ったのか? こっちは授業が長引いたから…。これでもすぐに電話したんだけどね。参ったなあ。あのね、マリア・グラフってピアノの実力は今ひとつで、同じ寮にいる上級生の話では彼女の芸大合格は何かの間違いじゃないかとまで言われていたらしい。三年生の中でも成績は決して良い方じゃないらしいんだ。そのくせプライドだけは高くって、付き合う友人やボーイフレンドで自分に箔を付けたがって、周囲に自慢するから同級生からの受けも良くないんだって。最近、ボーイフレンドと別れたらしいから、チェハに目をつけたんじゃないかって心配になったんだ。」
「勘弁してくれよ。こっちはいい迷惑だ。」
「その通り。でもきっぱり断ったんだろう?」
「当たり前だ。」チェハは憮然として言った。
「学校の中でいろんな噂は耳にしても、実際に全員で顔を合わせる機会はそう多くないから、コンサートなんかやると、いっぺんに注目されてしまうみたいだね。ゲオルクなんか、あの後女の子から花束とファンレターが届いて、彼女が怒り出しちゃったって困ってたよ。僕たちはお陰様で大丈夫だけどね。」
「聞いてないって。」
 フィリップは室内楽の授業で一緒に組んでいるヴァイオリン科の女子学生とコンサートの準備を始めた頃から付き合っており、苦痛でたまらなかった室内楽の授業が与えてくれた唯一の幸せだとフィリップは自慢していた。
「そうそう忘れるところだった。実は君に渡してくれって、一年生の女の子から手紙を預かってきたんだ。声楽科だって。この子は本当に可愛らしい感じのいい子だよ。」
「もういいって。そういうの、もうゴメンだから。」
「そう言わずに受け取れって。日本から来た子だって。ドイツ語はまだちょっとたどたどしかったな。だから一生懸命手紙を書いたんじゃないかな。」
 チェハは渋々その手紙を受け取ったが、とても読む気にはならず、放っておいた。そしてそのまま手紙のことは忘れていた。

 

 長かった冬が終わり、春の日差しが心地よく感じられるようになったある日のこと、授業を終えてフィリプやゲオルクたちと構内を歩いていたチェハは、向こうから歩いてくる一人の女子学生を見てハッとした。初めて見るその少女は明るく優しそうで、どこかウニョンに似ているような気がした。もしもウニョンが生きていたら、こんな人になってたんだろうか、と思わずその少女を見つめていると、フィリップがチェハをそっと突付いた。
「チェハ、あの子だよね? いつか手紙をもらった子。」
「手紙って?」
「ほら、冬に五人でコンサートやった後で、僕が預かってきて君に渡したろ?」
「ああ、そうだっけ?」
「なんだ、手紙もらったのに会いもしなかったのか? バカだなあ。ぐずぐずしてるから、もう手遅れみたいだよ。」
 フィリップの目は、その少女が手を振りながらボーイフレンドらしい青年のところへ駆けていく姿を追っていた。
「関係ないよ。そんな気、ないんだから。」
 そう素っ気なく言うと、チェハはひとりで先に帰ってしまった。
チェハはただの変わり者なんだろうか? それともいわゆる晩熟なんだろうか? いい奴なんだけどわからないところの多い男だ、全く。フィリップはそう思いながら、チェハの後ろ姿を見送った。

 

 (ここでの“CLEMENTINE” は、「春のワルツ」OST  classic 版に収められて   いる “Clementine  I  ?  to my little girl  I” をイメージしています。)

 

SPRING WALTZ 12  -ドラマで描かれなかった空白の15年-

 それからしばらくたったある日のこと、夕食後のコーヒーを飲みながらくつろいでいたミョンフンとチスクに向かって、チェハはおもむろに口を開いた。
「あの、大学の仲間とコンサートをやろうと思うんです。」
「コンサートだって?」新聞を読んでいたミョンフンが顔を上げた。
「はい。普段から大学の仲間とはお互いの演奏を聴き合って意見や感想を出し合っているんです。その仲間たちと、自分たちで批評しあうだけでなく、他の人にも聴いてもらえる機会を作りたいということになって…。小さなホールとピアノを借りるだけですから、そんなに費用もかかりませんし。」
「コンサートを開いて、いろんな人に聴いてもらおうっていうんだね。で、お金を取るのかい?」
「いえ、僕たちはまだ学生ですから、受付に箱を置いて、お気持ちだけいただくようにしよう、って言ってるんです。あまりいただけなかったらまだまだ勉強が足りないということですし、たくさんいただけたら励みになりますし。もちろん、アンケートもお願いするつもりです。」
「演奏するのは何人なの?」チスクが尋ねた。
「僕を入れて五人です。フィリップも一緒です。」
「お金は大丈夫なの? 足りなかったら言いなさいよ。他に何かいるものはない? 当日の衣装は?」
「費用は何とかなります。服は春のコンクールの時に着たものがあるから大丈夫です。あの、それよりもお父さんやお母さんのお知り合いで、僕たちのような学生の演奏でも聴いてくださる方がいらっしゃったら紹介して頂けませんか? お世辞で褒めてくださる方よりは、はっきり意見を言ってくださる方が有り難いんですけれど。」
「わかった。何か案内状のようなものはないのかい?」
「今、美術科の学生に頼んでいます。出来上がったらお渡ししますのでお願いします。」
「しかし、いろんなことを考えるものだね、若い人っていうのは。」ミョンフンは感心した。
「いえ、先輩たちもやってます。勉強になるそうです。だから僕たちもやってみることにしたんです。」
「そうかい、じゃあ頑張るんだよ。私も聴衆の一人として聴きに行くから。」
「はい。よろしくお願いします。」
 そう言うと、チェハは自分の部屋に引き上げた。
「何かをつかもうと必死なんでしょうね。春のコンクールの後、何だか思うように練習が進まなかったみたいでイライラしてましたからね。最近ようやく顔つきが穏やかになってきましたけれども…。それにしても音楽家って大変です。子どもが苦しんでいるのがわかっても、親は何もしてやれませんもの。」
 チスクはしみじみと言った。
「何だって同じさ。ある程度になれば、親は手出しできないよ。手伝ってやるだけさ。今度のコンサートを聴いてくれる人なら探せるよ。職場にも音楽好きはたくさんいるからね。」
「お願いしますね。私もお友だちに頼んでみます。」
「あの子には音楽があって良かったんだ。少しずつ自信をつけたら、何とか食べていけるようにはなるんじゃないか。」
「そうなんですよ。ピアノの才能は今まで教えてくださった先生方も皆さん、認めてくださっているのに、チェハはどうしても引っ込み思案で、自分から打って出るというところがないんですよ。練習はあんなに一生懸命するくせに…。やっぱり自分の道は自分で開いていかないとね。」

 

 翌日、チェハは大学で一緒にコンサートを企画している仲間と打ち合わせをした。
「ポスターとチラシのデザインは出来上がったよ。ほら、これ。」
「いいねえ。フィリップ、作ってくれた友だちによろしく言ってくれよ。この人へのお礼はどうすればいいかな?」
「今度、一杯ごちそうしてやれば十分だよ。昔、一緒に絵を習っていた奴だから、そんなに気を遣うことはないって。ゲオルク、印刷屋の見積もりは取れたかい?」
「うん。三軒当たってみたけど、ここが一番良さそうだ。応対がとても親切だったし、繁盛してる様子だったよ。」
そう言って、ゲオルクが出したのは「シュテファン印刷」という名刺だった。
「じゃあ、そうしよう。早速、このデザインを持って行って頼んでね。印刷が上がったら、手分けしてポスターを貼ったりチラシを配ったりしてお客さんを集めなきゃ。」
「あと、何か必要なものはないかな?」
「えーっと、受付用のテーブルは借りただろう? 当日受付を手伝ってくれる人を二、三人探さなくちゃ。でも、これはすぐに見つかるよ。」
「ステージに花くらい出すかい? それでなくても演奏するのが男ばっかり五人では殺風景だろうから、少しくらい華やかにした方がいいかもね。」
「予算と相談だね。当日どれだけ収入があるかわからないからね。花の値段だけ調べておくか。」
「じゃあ、それは僕がやるよ。」と、デンマーク出身のハンスが言った。
「ありがとう。助かるよ。」
「いや、こちらこそフィリップに何もかもやってもらって申し訳ないと思ってるんだ。よそ者には勝手のわからないことが多くて。」
「何もかもじゃないさ。ホールとの交渉はチェハがメインでやってくれたし、印刷の見積もりはゲオルクだし。」
「でもフィリップは段取りがうまいよね。てきぱき指示してくれるから、準備がスムーズに進むもの。」
「そう? それはありがとう。」
 皆に褒められて、フィリップは満更でもなさそうだった。
「じゃ、みんなコンサートの目途は立ったから、練習もしっかりやろう。これが一番大切なんだから。」
「ほんとだ。当日失敗したら何にもならないよ。」

 

「チェハは今度のコンサートの費用はどうするの? 君はアルバイトしてないだろ。」
 二人だけになった時、フィリップが尋ねた。
「いや、今度は自分で稼ごうと思ってるんだ。」
「へえ、どうやって?」
「うん。この間市民オーケストラから練習用ソリストの募集が来てたの、見なかった?」
「見た、見た。ベートーヴェンの『皇帝』だったね?」
「そう。本番に弾くソリストとはそう何度も練習できないから、実際にピアノが入ったらどんな感じになるか、本番用のソリストと合わせる前に練習しておきたいんだって。つっかからないで引いてくれればOK!って言うから、やってみようと思うんだ。オーケストラのための練習だから、カデンツァもいらないし。僕もオーケストラと合わせるのは初めてだから興味はあるんだ。」
「でも市民オーケストラじゃ、たいして謝礼は出ないだろ?」
「まあね。でも足りない分は今までに貯めたのもあるし、何とかなるよ。何でも親に頼りたくないからね。」 
「もちろん!」
 フィリップは大学に入ってから、ホテルのレストランやラウンジでのBGM演奏や結婚式の伴奏をするアルバイトをしていた。不定期な仕事であることが唯一の難だったが、ホテルの方でも何人かのアルバイトを抱えているので、大学の試験の時期やサマースクールなどで留守にする時は休めるところが気に入っていた。
「何にしても頑張ろうよ。僕たちの新しい一歩なんだから。」
「ああ、頑張ろう。」 

 

 二ヵ月後、五人のコンサートは無事終わった。三百人ほど入るホールは学生や一般の人でほぼいっぱいになったし、五人の演奏は概ね好評だった。終演後の打ち上げで、五人はコンサートの感想や反省を話し合った。演奏については五人ともその時点でのベストを尽くせたということで一致した。企画・準備で中心になって動いていたフィリップは回収したアンケートを取り出して、皆に回した。
「アンケートの回収率は五十%強くらいかな。いろいろ書いてくれてるよ。“ある程度完成されたプロの演奏と違い、まだ勉強中の皆さんの演奏は若々しい魅力に溢れていました。これからもしっかり勉強して、さらに腕を磨いてください”、とか “五人の個性がはっきり表れた面白いコンサートでした。次回も楽しみにしています。” とか。」
「辛口のもあるよ。“ユン・ジェハのショパンの『舟歌』はテンポがゆっくり過ぎて、何だか船酔いしそうでした。自分の好きなテンポに拘らないで、聞きやすい演奏をしてください” だって。ワルツに関しては褒めてるけどね。」
「そんなに遅いかな? 僕はあれが一番弾きやすいんだけど。」
チェハは首をひねった。
「確かにチェハの『舟歌』はゆっくりめだけど、船酔いはないだろう? 好みの問題だと思うけどな。」
「そうだよな。僕はチェハの『舟歌』、好きだよ。あんまり速く弾くと舟に揺られてるイメージじゃなくなるよ。他に何かチェハの批評はない?」
「あとは褒めてるよ。チェハの音色は何とも言えずにきれいだから。特に今回はお得意のショパンだし。きっとこれを書いた人は速いのが好きなんだよ。」
「なになに? “男ばっかりでやらないで、今度は女性も入れてください” だって。男ばっかりでどこが悪い?」
「今回はたまたまこの五人で話がまとまっただけだもんな。別に女性を外したわけじゃない。」
「フィリップの『熱情』は評価が分かれてるぞ。“斬新で面白い” というのもあるし、“もっと基本に忠実に” というのもある。」
「こっちにもあるぞ。”フィリップ・ローゼンタールの演奏は聴衆の受けを狙った若き日のルービンシュタインを思い起こします。自分らしさを追い求めることも大切ですが、基本を今一度見直すことも大切です。せっかく素晴らしいテクニックを持っているのですから、もったいないです。”」
「ルービンシュタインだって。こりゃ傑作だ。頑張れば末は大ピアニストだぞ。」
「我が道を貫くか、教授の指導に従うか。フィリップ、ここは思案のしどころだな。」
 ゲオルクに声をかけられて、フィリップは無言のまま何かを考え込んでいるようだった。
「“ハンス・ヤコブセンはドビュッシーとリストを見事に弾き分け、それぞれの曲のイメージを十分に表現していた”。」
「僕の批評、ない?」
それまでお金の計算をしていたジョン・バリーがアンケート用紙を覗き込んだ。
「ジョンのモーツアルトは好評だよ。ゲオルクのラフマニノフもね。アンケートは後で整理してまとめよう。でも、やって良かったよね。学校の試験とはまた違う緊張感があった。たくさんの人に聴いてもらうんだと思うと、僕はいつもより集中して練習ができた気がするよ。」
と、ハンスが言った。
「うん、何だか達成感がある。これから勉強していく上でも少し自信が持てそうだ。」
「またやらないか? 半年ごとはちょっと大変かもしれないけど、もう準備の段取りもわかったし、年一回なら大丈夫だろ?」
フィリップの提案に、皆、異存はなかった。
「お金の方も予想していたよりは多いよ。みんなの分担金を全額返せるほどじゃないと思うけど、少しずつなら返金できるんじゃないかな。」
会計を担当しているジョンが言った。
「だったら、今回の収入はみんなに返さないで次回のコンサートに回したら? お金を入れてくれた人は、きっとこれからも頑張れっていう気持ちだったんだと思う。」
「そうだよね。少しずつ返してもらっても、きっといつの間にか使ってしまうだろ? それより残しておけば次への励みにもなるじゃないか。そしてまた、みんなに楽しんでもらえるような演奏会をしよう。」
「じゃ、そうと決まったらこのお金は大事に持ってろよ、ジョン。生活費に困っても決して使い込まないように。」
「今度はチェハとフィリップお得意の連弾も入れたらどう? ソロとは違ったピアノ曲の魅力を感じてもらえるんじゃないかな。」
ハンスの提案に、チェハとフィリップは目を見合わせて頷いた。
「いいね。じゃあ、それは早めに準備しないとね。」
 フィリップは快く返事をした。フィリップにとってもチェハとの連弾は楽しいものだった。しかし連弾は連弾として頑張るにしても、ソロで弾く曲は自分らしい演奏、自分にしかできない演奏をしてみせる。それがどんなものかは今はまだわからないけれど、一年かけてそれを確立しなければ。フィリップはそう決意していた。
 その夜、五人の話は尽きなかった。

 

SPRING WALTZ 10 -ドラマで描かれなかった空白の15年

 学年末試験も終わりに近付いたある日のこと、休み時間にチェハとフィリップが、パリのガイドブックや美術館の案内書を広げているところへ、チェ・チャンホがやってきた。
「何? 試験勉強かと思ったら二人で旅行に行くの?」
「サマースクールだよ。僕たち、筆記試験はもう全部終わったんだ。」
「君たちはいつも一緒に行動するんだね。」
「いや、たまたまさ。僕は最初からパリに決めてたんだ。そしたらチェハもパリにしたっていうから一緒に準備してるわけ。」
「別に相談して決めたわけじゃないんだよ。サマースクールもいろいろあって迷ったんだけど、一度教わってみたいと思ってたコルベール教授が講師として参加するってわかったから、そこに決めたんだ。そしたらフィリップも偶然同じ所に申し込んでたの。」
「フィリップは何でパリにしたの?」
「サマースクールでしっかり勉強して、それ以外の時間も有効に使うためさ。パリのサマースクールは、講師の先生たちも一流だし練習環境がとてもいいんだ。練習用のピアノを使える時間がきちんと決められているから、ピアノの取り合いに時間を使わなくてすむ。学校所蔵のCDも自由に聴かせてもらえるっていう話だし。そしてパリにはルーブル美術館やオルセー美術館を始め、すばらしい美術館がたくさんあるだろ。一度ゆっくり行ってみたかったから、一石二鳥を狙ったってわけ。君はイギリスのバーミンガムだっけ?」
「そこは少人数だから一足違いで一杯になっちゃったんだ。今年はザルツブルグで勉強して、ついでに音楽祭を聴いてこようと思ってる。それが終わったらしばらく韓国へ帰るよ。」
「お里帰りかい?」
「うん。たまには帰らないとね。ウィーンは素晴らしいところだけど、海がないじゃない?毎日、釜山の海を見て育ったからかな。しばらく海を見ないと辛くなるんだ。チェハは韓国には帰らないの?」
「えっ…。」
 不意を突かれてチェハは一瞬言葉に詰まった。
「帰るって、僕、韓国に家はないんだ。両親もこっちに住んでるから…。」
「そうか、そうだったね。でもたまには一緒にお墓参りとか行かないの?」
「父は時々仕事で帰るから、その時に済ませてるよ。」
「なるほどね。君は海外の方が長いから、韓国には馴染みが薄いんだね。じゃあ、しっかり準備して良い夏休みを。また話を聞かせて。」
チェ・チャンホはそう言うと部屋を出て行き、チェハはそれ以上追求されずにすんでホッとした。チェ・チャンホはいたっておおらかで細かいことを気にするタイプではなかったし、神童と呼ばれた本物の「ユン・ジェハ」のことも初対面の時に触れただけで、その後話題にすることはなかった。
 二人の話を横で聞いていたフィリップは、チェ・チャンホを見送ってから言った。
「海か…。いつか一緒に海に行こうって言って、そのままになってたね。この際、行こうよ。パリまで行ったら海はすぐだし、ドーバー海峡を渡ったらイギリスだ。ロンドンに行けば大英博物館も国立美術館もある。海が見られて大英博物館が見られたら言うことなし! 付き合えよ、チェハ。君はロンドンには何度か行ってるから珍しくないかもしれないけどさ。」
「お前は、どこへ行っても美術館だね。」
と呆れながらも、海にひかれてチェハはフィリップと行動を共にすることにした。
「そうと決まったら、最後の実技試験、頑張ろうよ。試験にしくじったら元も子もないぞ。」

 

 無事に学年末の試験をクリアしたチェハとフィリップは、パリにやって来た。二人ともパリは初めてではなかったが、チェハにとって一人でオーストリアから出るのは初めてのことだったので、以前両親と訪れたことのあるパリも何だか新鮮に感じられた。三週間のサマースクール期間中は週三日のレッスンを受けることになっており、フィリップは見事な集中力でレッスンを受け、与えられた練習時間を使い切ると、あとは精力的に街へと飛び出して行った。最初はチェハもフィリップと一緒に出かけようとしたが、どうしても練習時間がずれる上、見たい絵も違うので、結局は別々に出かけることにした。
「その方が好きなものが見られていいだろ? 僕もルーブルには前に父さんと来たことがあるんだけど、父さんの都合で十分時間が取れなかったんだ。せっかくの機会だから、自分の見たいものを見た方がいいよ。」というフィリップにチェハも賛成だった。
 フィリップはどちらかといえば人物画を好み、チェハはどちらかといえば風景画を好んだ。好きな絵が展示してある部屋の椅子に腰を下ろして、じっと絵を眺めていると、その絵の向こうから何だか美しいメロディーが聞こえてくるような気がして、チェハは時間を忘れて美術館で時を過ごすこともあった。美術館を出た後は気ままに街をぶらついた。以前、両親と来た時に主な観光地は見ていたので、今回は足の向くまま自由な散策を楽しんだ。チェハにはパリはウィーンよりも開放的に感じられた。文化の違いなのだろうか。ストリートミュージシャンが奏でる音楽も明るく楽しかった。サマースクールでのレッスンは期待通りとても充実したものだった。その分個人練習にも自然と身が入り、気分転換の材料にも恵まれ、フランス語に手こずることは度々あったが、チェハはとても有意義な毎日を過ごしていた。

 

 ある日曜日、チェハはフィリップとフランツというドイツのフランクフルトから来た学生と三人でヴェルディのオペラを楽しんだ。終演後、三人はオペラ観賞の余韻に浸りながらフランツのリクエストでモン・マルトルのサクレクール寺院まで足を延ばした。晴れ渡った青空に白い建物が美しく映えており、石段を登りきると、そこからはパリ市内が一望できた。爽やかな風が心地よかった。
「見事な眺めだね。やっぱり来てよかったよ。フランスはドイツとは全然雰囲気が違うね。おしゃれって言うのかな? オーストリアとも違うかい?」
「ああ、違うよ。パリの方が開放感があるような気がする。まあ、休暇で来ているからそう思うのかもしれないけどね。」
「ただ、言葉に不自由するのは辛いね。ある程度は勉強してきたけれど、何とか質問できても相手の返事が聞き取れないことが多いし、難しいことはフランス語では話せないし。食事に行っても英語のメニューがない店だとお手上げだしね。」
「そうだよね。パリに来たらおいしいものが食べられると思ってたんだけど、メニュー見ながら辞書引いてたんじゃ時間がかかってさ…。」フィリップは思わず愚痴をこぼした。
「僕はね、面倒くさくなったらハンバーガー食べに行っちゃう。これは間違いないからね。」「それがさ、こいつハンバーガー食わないの。」とフィリップはチェハを見ながら言った。
「へえ、そうなの? チェハ」フランツは驚いて言った。
「珍しいだろ? ハンバーガーって、たいていみんな食べるもん。でもチェハはハンバーグステーキは食うの。生野菜も食うの。もちろんパンも食うの。それなのに三つが一緒になったら食わないの。他に嫌いなものってないんだけどね。」
 チェハはバツが悪そうに笑って、答えなかった。
「でも好き嫌いは人それぞれだからね。僕の友人でもベイクド・ポテトは好きだけど、フライド・ポテトは食べられないって奴がいるよ。さあ、パリもあと一週間だし、今日はうまいエスカルゴでも食べに行かない? この前行った奴にちゃんと教わってきたから、何とかオーダーできると思うよ。」
「じゃあ、そうしよう。」
「オペラ見て、うまいエスカルゴ食って、最高だなあ。また明日から頑張ろう。」
 フィリップのそのひと言で、三人は立ち上がった。

 

 パリでの三週間は瞬く間に過ぎた。チェハはコルベール教授の的確な指導のお陰で、この数ヶ月間ずっと抱えていた演奏上の悩みが解決できそうな見通しが持て、明るい気持ちでサマースクールを打ち上げることができた。フィリップにとっても、パリでの三週間はピアノの面でも絵画鑑賞の面でも有意義な時間となった。そして二人はイギリス旅行に必要なもの以外はウィーンに送り返し、ロンドン・ウォータールー駅行きの列車に乗り込んだのだが、計画を立てていた時の盛り上がりに比べると、二人の気持ちは晴れなかった。
「トンネルを出たら、はいイギリスです、って言われてもピンと来ないよな。」
「全くだよ。車内で出入国の手続きが済ませられるのは便利だけど、乗車券のチェックみたいなもんだし。こう雨風がひどいと景色の違いもわからないし。」
「お天気には勝てないよな。帰る頃にはお天気になって、予定通り船で海が渡れるよう祈るのみだよ。」
 数年前にユーロトンネルが開通し、パリ-ロンドン間が鉄道で結ばれたお陰で、パリから三時間弱でロンドンにいけるようになっていた。しかし二人はカレー港からドーバーまでフェリーで海を渡るのを楽しみにしていたので、荒天のためフェリーは欠航中との知らせにがっかりしてしまい、仕方ないと思いながらも、つい愚痴が出るのだった。
 二人を乗せた列車は程なくロンドンのウォータールー駅に到着した。そのまま地下鉄で予約してあったホテルに向かい、荷物を預けると、二人は大英博物館に向かった。
チェハには四回目のロンドンだったが、前はレッスンで来ていたので、そんなにあちこち見ておらず、大英博物館も駆け足で回っただけだった。ロンドンには三日間滞在することになっていたので、二人は事前に相談して一緒に行くところと別行動するところを決めておいた。初日はそれぞれが大英博物館を見た後、夕食を取って、ロンドン交響楽団のコンサートを聴き、二日目はチェハが以前指導を受けたピアニストに挨拶に行くことになっていたので、フィリップは前日見られなかった部屋を回るために、再び大英博物館へ出かけた。
 夕方、チェハと合流した時、フィリップはつくづく感心して言った。
「本当によくこれだけいろいろな物を世界中から持って来たもんだね。昔の大英帝国がいかにすごかったかがよくわかるよ。しかも、これをただで見せてくれるんだからね。二日間入り浸って、昼食代しか払ってないなんて信じられないよ。チェハは今日先生のところに行くまで、何をしていたの?」
「ウェストミンスターの桟橋から船に乗ってグリニッジまで行って、また戻ってきたんだ。時間つぶしにはちょうど良かったよ。」
「天文台まで行った?」
「いや、そこまでの時間はなかった。だから行きも帰りもボーッと周りを見てたんだけど、ロンドンの街ってテムズ川沿いにできたみたいだね。国会議事堂もウェストミンスター寺院もセントポール大聖堂もロンドン塔も、みんなテムズ川沿いにあるんだ。今日は天気が良かったから、気持ち良かったよ。」
「なるほどね。実際に来てみるといろんなことがわかるね。確かにロンドンって、前に君が言ってたみたいにバラバラな感じはするけど、それだけいろんな文化や民族が集まっているんだろうね。大英博物館を見ていて、そう思ったよ。イギリスって何でも取り入れるのかもしれないね。英語にはドイツ語やフランス語以上に外来語が多いっていうもんね。」
その晩は、二人で各国文化についての話が続いた。
 三日目は、二人一緒に国立美術館(National Gallery) やテイト美術館を見ながら街を歩き、四日目、朝早くロンドンを発った二人は列車でドーバーに向かった。ドーバーまでは一時間半ほどの旅だった。駅からドーバー城を見上げながらしばらく歩くと、白い岩壁が現れ、その向こうに海がキラキラ光っているのが見えた。
「やった~!」
 フィリップは歓声を上げて駆け出し、チェハも後に続いた。海を見るのはエジンバラ以来だから四年ぶりだった。ウニョンと春の波打ち際で遊んだと時のことがまざまざと思い出されて、チェハは胸がいっぱいになった。二人は靴を脱いで足首まで水に入ってみたが、真夏とはいえ海の水は冷たかった。
「泳ぐにはちょっと冷たいね。」と、フィリップは波打ち際に腰を下ろした。
「見てるだけで十分だよ。海って飽きないから。」
「本当だよね。ザブンザブンって同じことの繰り返しなのにね。」
 二人は長いこと座ったままで海を見ていた。
 フィリップは幼い頃、まだ元気だった母と父と一緒に行った南フランスのリゾート地を思い出していた。五歳くらいだった自分、優しく明るかった母、そして父。三人で海辺で遊び、フィリップは浮き輪を持って海に入った。ボートにも乗った。父に肩車されて海に入った時、いきなり父に振り落とされて大泣きした自分を母が優しく助けてくれたこと、砂に穴を掘って父を埋め、体の上に山のように砂を盛って仕返しをしたことなどフィリップは懐かしく思い出した。それはフィリップの人生に寂しさや不安が影を落とす前の最後の夏だった。その翌年に母は病に侵され、長い闘病生活の末に世を去ったのだった。
 チェハにとって、海はウニョンそのものだった。父に置き去りにされ、ひねくれて誰にも心を開けずにいた自分に、ウニョンは寄せては返す波のように、春の日差しのような暖かさ、優しさを注ぎ続けてくれた。そして自分の冷え切った心のすみずみまで温め、包んでくれたのだった。信頼と愛情という、それまでの自分が受けたことのなかったものを与えてくれたウニョンのことを何よりも大切に思っていたのに、そのウニョンを自分は一人で死なせてしまった。その後悔の思いは何年たっても消えることはなかったし、どんなに辛くても忘れることはできなかった。ウニョンのことを忘れたら、自分は自分でいられない…。
 チェハはふと隣にいるフィリップに目をやった。フィリップは近くで遊んでいる家族連れを見ていた。若い両親と小さい男の子。フィリップはきっと亡くなったお母さんのことを思っているのだろう。フィリップと知り合った頃に亡くなった母親のことは聞いていたが、その後フィリップは滅多に母親のことは話さなかったし、チェハも敢えて聞こうとはしなかった。自分にとってウニョンが大切な存在であるように、フィリップにとっても亡くなった母は特別な存在に違いないし、そこに踏み込むことは憚られたのだ。

 

 しばらく海辺で過ごした二人は街へ戻り、ドーバー城を見たり街を散策したりした。その日の二人はいつもより寡黙だった。ドーバーで波の音を聞きながら一泊して、翌朝のフェリーで二人はイギリスを後にした。だんだん遠ざかっていくドーバーの白い岩壁を眺めていたチェハに、ふと一つのメロディーが浮かんだ。遥か彼方にある青山島、口に出してその島の思い出を語ることも、その思い出を懐かしいと言うことも許されないチェハの気持ちを表すようなメロディーを、チェハはウィーンに帰ってから小さなピアノ曲に仕上げた。彼はそれに「島の話」というタイトルをつけた。

SPRING WALTZ 8(改訂版) 

 九月。チェハとフィリップの大学生活が幕を開けた。
 初めて学生として登校した日、さすがのチェハも感無量だった。世界各国から演奏家を目指す若者が集まってくるウィーン芸術大学音楽学部の一員になれたのだ。彼がピアノを始めて、まだようやく七年だった。彼のことを亡くなったチェハだと思い込んでいたチスクに否応なく練習させられたのが始まりであり、その頃は「何故こんなことまで…」と思ったものだった。しかし曲が弾けるようになると、彼はピアノにのめり込んだ。生来、無口な彼にとってピアノは自分の気持ちを表現できる唯一の手段となり、またずっと心に秘めてきた辛い思いを吐き出す術ともなった。小学校にすらろくに通えなかった彼は、どんなに頑張っても勉強ではいつも悪戦苦闘の域を抜けられず、そのことが彼を一層ピアノに向かわせたのかもしれなかった。ピアノでは言葉のハンディキャップを感じることもなく、自分一人の世界で自分を表現できることが人付き合いの苦手な彼にはありがたかった。自分が望んで手にしたものではなかったが、ピアノと出会えたことに彼は感謝していたし、自分のためにはどんな援助も惜しまないミョンフンとチスクにも感謝していた。
 しかし、彼は自分の幸せを手放しで喜んでいるわけではなかった。心の奥底には子どもの頃の辛く苦しい記憶が今もしっかりと根付いていた。賭場に入り浸り、浴びるように酒を飲み、時には警察に引っ張られた父の子として生まれ育ったこと、その父に度々置き去りにされ、寂しい荒んだ日々を送ったこと、そして父の故郷、青山島で出会った少女ウニョンに心癒されたのも束の間、父がウニョンの手術代を盗んで逃げたため、ウニョンの手術代と引き換えにミョンフンの子どもになったこと、そしてウニョンが死んでしまったため、韓国に戻るきっかけを失ったままチェハとしてこの七年間生きてきたこと、彼は何一つ忘れてはいなかったし、自分の過去を決して人に知られてはならない、と思うことが彼に大きな影を投げかけていた。イ・スホとして過去の自分の罪を償うこともできず、優しい両親に何不自由なく育てられたユン・ジェハとして生きていかなければならないのだ。今でも、時おり彼は昔の夢を見てうなされたし、その度にどうすることもできない苦しさを感じた。しかし彼は、これも運命として受け入れるしかないのだと、いつしか思うようになっていた。決して自分が望んだわけではないが、不思議な巡り合わせで今自分はここにいる。この七年間実の子同然に自分を育ててくれた両親のためにも、迷惑をかけないようにしなければ…。チェハはそう考えていた。
 それまで通っていた学校と違って、ウィーン芸術大学にはオーストリア国内はもとより、ヨーロッパ各国、遠くはアメリカ、アジア、アフリカ諸国出身の学生もいた。また女子学生も多かった。ウィーンに来てから通った学校は男子校ばかりだったから、チェハは同年代の女子が身近にいることに戸惑いを覚えたが、女子学生がいることで随分華やかな雰囲気になるもので、チェハは改めて自分が本当に新しい世界で新しい人生を歩き始めたことを感じていた。
緊張気味のチェハの傍らで、フィリップは何だか興奮気味だった。
「見ろよ、チェハ。こうしてここにいると今までどれだけ不幸な学校生活を送ってきたか、よくわかるよね。やっぱり男子と女子は一緒に過ごすべきだよ。それでこそ自然なんだ。これからは女の子とも仲良くできる。ダンスパーティーに行ったり、デートしたり。」
「大学生になった最初の日だぞ。お前の目標は4年後の国際コンクールじゃなかったのか?」
「勿論だよ。でも良い演奏をするためには素晴らしい恋愛もしなくっちゃ。音楽は愛から生まれるんだぞ。」
「そりゃそうかもしれないけど…」
チェハは苦笑した。確かにフィリップの言うとおり、ロベルト・シューマンとクララ夫人、ショパンとジョルジュ・サンド、グスタフ・マーラーとアルマ夫人など多くの音楽家の愛の物語が後世に伝えられているように、恋愛は音楽を生み出し、奏でるための大切な要素であることは間違いないようだが、女子学生どころか男子学生にも自分から声をかけることがほとんどないチェハにとっては、恋愛は想像もつかないことだった。チェハが今までに付き合ってきたクラスメートは、どんな人とも気軽に付き合う社交家タイプか、フィリップが橋渡しをしてくれて友だち付き合いが始まった人ばかりだった。もともと人付き合いが苦手な上、新たに知り合う友人に対しても、本当の自分を隠してユン・ジェハとして振る舞わなければならないことを思うと、チェハは自分から踏み込むことができないのだった。
 フィリップだけは別だった。初めて出会った時にフィリップが見せていた、どこか寂しげな弱々しい表情がチェハは気になって仕方がなかったし、フィリップが話してくれた彼の生い立ちは他人事とは思えなかった。父の愛を求めても十分には与えられず、寄宿舎に入れられたフィリップ。いじめられても誰にも言わず、じっと耐えていた姿をチェハは今も忘れられずにいた。勿論、フィリップの父は犯罪者ではないし、フィリップが生活に不自由しないよう、ちゃんと気を配っていた。でもそれだけではフィリップの寂しさは到底埋められず、フィリップは事あるごとにチェハに愚痴をこぼし、チェハも親身になってフィリップの話を聞いてきた。
 自分には何でも打ち明けてくれるフィリップに対しても、チェハは自分の過去を話したことはなく、彼に本当の自分を隠していることを申し訳なく思っていた。しかし、フィリップとはあれこれ考える前に、互いの孤独な心に引き寄せられるように親しくなったのだった。心を通わせ合える唯一の友としてチェハはフィリップを大切に思っていたし、彼と共に大学生活を送れることを嬉しく思っていた。

 

 音楽学部の学生の経歴は実に様々だった。チェハやフィリップのようにギムナジウム(注:日本の中学・高校にあたる中等教育機関)を卒業してすぐに入学してきたのはむしろ少数派で、外国からの留学生の中には母国の音大から留学してきている者もいれば、卒業後さらに腕を磨くためにウィーンに来た者もいた。なかには十五、六歳で入学を許された者もあった。そのため学生の年齢もまちまちだったが、そのことが同年齢集団以上の活力を生み出しているようにも思えた。
 授業が始まって間もなく、フィリップは早くも数人の女子留学生と仲良くなり彼女たちのドイツ語教師役を買って出ていた。明るく、紳士的なフィリップは女子学生ともすぐに仲良くなれるのだった。一方チェハは、一人の韓国人留学生と知り合いになった。
 「すみません。君、ユン・ジェハ君でしょう?」
突然、韓国語で呼び止められ、驚いて振り返るとそこには韓国人らしい一人の男子学生がにこやかに微笑みながら立っていた。
「驚かせてしまったみたいだね。突然声をかけて申し訳ありません。僕は、チェ・チャンホです。君は子どもの頃、ソウルで“ピアノの神童”って言われていたユン・ジェハ君でしょう?」
「えっ? ええ。あの、その頃お会いしましたか?」
「いや、僕はずっと釜山にいましたから、会う機会はなかったんです。ただソウルにすごい少年がいると噂には聞いていました。こんなところで会えるとは…。」
「は、はあ…。」
「僕は十七歳でニューヨークのジュリアード音楽院へ行って、そこで勉強してからこちらに来たんです。ユン・ジェハ君はいつウィーンへ?」
「僕は十二歳の時に父の仕事で来て、それからずっとです。」
「そうだったの。だから長いこと噂も聞かなかったんだね。じゃあ、もうドイツ語には不自由しないでしょう。僕もドイツ語は勉強してきたんだけど、とても全部はわからないから時々教えてもらえないかな?」チェ・チャンホという
「それくらいでしたら、構いません。いつでも言ってください。」
「ありがとう。助かるよ。じゃあ、どうぞよろしく。」
チェハは一礼して、自分よりは幾分年上だと思われるチェ・チャンホという学生を見送った。彼が本当のチェハの知り合いでなかったことにチェハはほっとしていた。亡くなったチェハは韓国で“ピアノの神童”と呼ばれ、コンクールで優勝したこともあったというから、ピアノを学ぶ人には遠くまで名前が知られていたのだろう。「世間は狭い、ってことだな」と、チェハは心の中で呟いた。そして、これからもこんなことはあるかもしれないのだと思いながら、彼は次の授業に向かった。

 

 大学での毎日はとても充実していた。ピアノの実技の授業も音楽理論の授業もやりがいがあり、チェハは苦手な教科の勉強から解放されて、好きな音楽に専念できるのが嬉しかった。
「何だか毎日楽しそうだね、チェハ。ギムナジウムの頃とは顔つきが違うじゃないか。」
「だって、もう数学だ、科学だってものに煩わされることがないんだから。好きな勉強に集中できるって、ありがたいね。」
「どこまでも頑張り屋だな、君は。ちょっと遊んでみたいと思わない? たまには女の子と出かけてみるとか。何なら誰か紹介しようか?」
 その頃フィリップは、イザベルというフランスからの留学生と付き合い始めていた。
「いや…、」とチェハは首を振った。
「遊びじゃないけど、実は一つやってみたいことがあるんだ。」
「へえ、何?」
「曲を作ってみたいんだ。今までピアノを練習していて、ふっとメロディーが浮かんできたことがあって、書き留めてはあるんだけれど、曲として出来あがっていないのもあってね。どうしたらいいのか、アドバイスがもらいたいんだ。作曲科の先生に個人的に教わっている人もいるって聞いたから、僕もお願いしてみようかと思って。君みたいにアレンジもやってみたいしね。」
「そうだよな。僕もずっと我流で好き勝手にアレンジしてただけだから、一度ちゃんと教わろうかな。一緒にやってみる?」
「ああ、勿論。春のコンクールが終わってからで、どう? それまでは授業とコンクールの準備で忙しいだろ?」
「そうだね。それでいいよ。」
 二人は翌年四月にドイツで開かれる「ヨーロッパ・ピアノコンクール」に出場することになっており、ドビュッシーの曲に取り組んでいるのだった。
「今度のコンクールでは二曲弾かなきゃいけないしね。“花火”も“月の光がそそぐテラス”も表現が難しいよな。でも、あんまり根を詰め過ぎるなよ。そうだ、明日の晩、同じクラスのカールと飲みに行くんだけど一緒にどう? カールも誰か誘うって言ってたから、四,五人になりそうだけど。」
「いいね。僕も行くよ。」

 

 その晩、チェハはチスクに翌日のフィリップとの約束を伝えた。
「また、出かけるの?」と、チスクは渋い顔をした。
「またって、お前。チェハが友だちと出かけるのは、せいぜい二週間に一度くらいなもんじゃないか。それくらい当たり前さ。職場の連中の話だと、今時の学生はもっと自由にやってるそうだ。チェハは今まではずっとピアノの練習と学校の勉強で遊ぶ暇なんかなかったんだから、息抜きも友だち付き合いもさせてやらないと。チェハ、気にしないで出かけておいで。」
「でもあなた、そんなこと言ったって、飲んで帰ってきたら練習だってできませんよ。それに酔っ払いに絡まれて、ケガでもしたらどうするんですか? うちへ友だちを連れてくればいいんですよ。」
「それも勉強のうちさ。チスク、チェハはもう子どもじゃないんだから、あまり干渉するんじゃないぞ。もう私たちが守ってやる時期は過ぎたんだ。これからは外に出てチェハ自身が世界を広げていかないと。息抜きしながら自分をコントロールすることも覚えないと。お前はチェハを閉じ込めようとしすぎだ。男の子なんだから、たまには友だちと飲み明かすようなことがあって、当たり前なんだ。大丈夫。この子は無茶はしないさ。」
「でも……」
「その代わりチェハも出かける時は、今まで通り母さんにちゃんと断わって行くんだ。遅くなる時はなるべく連絡を入れろよ。心配かけないようにな。黙って行ったりしたら、大変なことになるんだから。」
「わかりました。約束は守ります。」

 

 飲みに行っても、チェハはどちらかと言えば聞き役だった。でも共に音楽を学ぶ者同士、作曲家について、かつて活躍していたピアニストについて、最近聴いた素晴らしい演奏について、またそれぞれがコンクールに向けて取り組んでいる曲について語り合うことは楽しかった。連れ立ってコンサートやリサイタルを聴きに行って、感想を述べ合うこともあった。チェハの仲間は、将来演奏家を目指す学生ばかりで、皆自分の技術を磨いて、より優れた演奏を目指すのに懸命だった。未熟な彼らだったが、一様に伸びていこうとするエネルギーに溢れていた。そんな中で、チェハも多くの刺激を受け、より意欲的に練習に取り組むようになっていた。

 

そして翌年の四月。一緒に参加したコンクールでチェハとフィリップは共に二位入賞を果たした。発表を聞き、チェハと握手を交わしてフィリップは言った。
「今回は二位。お互いに順位を上げたよね。三年後は一位を目指すんだ。世界最高って言われてるコンクールだもん。演奏家としてデビューするのに、これほどふさわしいステージはないよ。」
「それはそうだけど、三年後のコンクールだけで全てが決まるわけじゃないだろう。コンクールは他にもあるんだし、そちらから世に出る人だって大勢いるじゃないか。」
「でも目標は一つに絞らなきゃ。僕の目標は三年後のウィーン国際ピアノコンクール。これに賭けるよ。」
 フィリップにっこまでウィーン国際ピアノコンクールを意識させたのは、前回優勝した中国人女子留学生のチェン・イーフィーだった。コンクール優勝者はオーストリア国内のみならず、その出身地でも大きく報道されるが、二年前チェン・イーフィーの優勝と、彼女の優勝に熱狂する中国の様子を伝えるテレビや新聞・雑誌の記事に、フィリップは大きく心を動かされた。そして数ヵ月後、チェン・イーフィーの中国凱旋コンサートの記事を見て、フィリップは心を決めた。「次のコンクールに出よう。そして優勝するんだ」、と。
フィリップの母は韓国人だったが、韓国の祖父は混血児であるフィリップを嫌い、孫として認めてくれなかった。母が亡くなってからはずっとウィーンで暮らしてきたが、ウィーンでも混血児であるため、珍しがられたり奇異の目で見られたりすることがあった。ソウルオリンピックでその存在を全世界にアピールしたとはいえ、オーストリアの人々にとって韓国はやはり遠い未知の国だった。これまでにウィーン国際ピアノコンクールで優勝した韓国人はいなかった。だからフィリップは、自分がコンクール優勝者として報道されたら、韓国でもオーストリアでも自分をちゃんと認めてもらえそうな気がした。それまでの悔しさを全部晴らして、演奏家として華々しく活躍する自分の姿を思い描いて、フィリップはこの二年間練習に打ち込んできたのだった。
 フィリップにとって、チェハは大切な親友であると同時に、手強いライバルでもあった。以前はテクニックではチェハに負けない自信があったが、十五歳で初めて出会った頃に比べると、チェハは格段に腕を上げており、その差は年々縮まっていた。チェハの成長ぶりはフィリップにとって脅威だったが、当のチェハはそんなフィリップの気持ちに気付きもせず、ただ無心に練習を重ねていた。「負けるわけにはいかない。」親友としてチェハのことは誰よりも大切に思っていたが、三年後のコンクールでは是が非でも優勝して、ピアニストとしての道を開くんだ、とフィリップは改めて心に誓った。

 

プロフィール

そよかぜおばさん

Author:そよかぜおばさん
韓国ドラマ「春のワルツ」で描かれなかった15年間に興味を持ち、何とかこの空白を埋めてみよう!と皆さんからアイデアを頂きながら進めてきました。ドラマ後の物語(ピアニスト クリス・ユンの復活)も同時進行させています。「空白の15年」はまだ6年ほど残っていますが、「復活編」はひとまず完結いたしました。


これとは別に趣味のクラシック音楽の話、印象に残った本やテレビ番組、映画の感想など思いつくまま気の向くままにお話ししたいと思います。

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