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SPRING WALTZ   -ドラマの後の物語-

                                  (Epilogue)


  ピアニスト クリス・ユン復帰リサイタルの一週間後、青山島の小学校に一台のグランドピアノが運び込まれた。スホのたっての希望で明日はここで青山島の人々を招待してリサイタルが開かれることになっており、今日はその準備をしているのだった。
「またこの島にグランドピアノが運ばれるのを見るとは思わなかったよ。」
 校庭の一角で準備作業を見守っていたフィリップが、スホに向かって感慨深げに言った。フィリップは復帰リサイタルの後マリアと一緒に韓国内を旅行して、先ほど偶然ピアノと同じ船で青山島に到着したところだった。
「まだまだ先のことだけど」
と、スホがフィリップを振り返って言った。
「僕の仕事が軌道に乗ったら、いつかこの島に小さなコンサートホールを作りたいと思ってるんだ。そして僕だけでなく時々は他のアーティストも招いて、ささやかでも質の高いコンサートを毎年菜の花の季節に開きたいんだ。」
「なに、音楽祭でも立ち上げるつもりなの?」
「まさか、そんなに大げさなものじゃない。でも良い演奏を聴きたいと思ってもこの辺りでは難しいだろう? 本物の演奏を聴いたことのない人たちに、音楽がどれほど素晴らしいものか伝えたいんだ。僕がここにいた時、いろいろ工夫してやってみたけど試行錯誤の連続でなかなか十分なことはできなかった。でも僕の手も治ったし、ピアノのソロだけじゃなく弦楽器や木管楽器の奏者を誘えばオーケストラは無理でも室内楽ならできるだろう。音楽によって傷ついた心が癒されたり、力づけられたり、生きる喜びを感じたり…。そんな経験を僕たちは今までに何度もしてきたじゃないか。それをこの島の人たち、特に子どもたちに伝えたいんだ。ホールができるまでは学校を借りてね。」
「なるほどね。音楽家としてそういう活動も大切だね。それにこの近隣の島や町からも聴きに来てくれたら青山島も多少は潤うだろうし。」
「そうなんだ。青山島の人たちに何かお礼ができたら、とも思ってね。」
「お礼?」
「うん、すべてはここから始まったから。もう二十六年も前のことになる。借金取りに追われた親父が僕をおじいちゃんに預けるためにここへ連れて来たんだ。その時にはもうおじいちゃんは亡くなっていたんだけど、偶然出会ったウニョンのお母さんに僕は預けられた。その後のことは君も知っている通りさ。青山島に来てウニョンに出会わなかったら今の僕はなかった。それに結婚してここに住んでいた時、島の人たちには本当に良くしてもらったんだ。親父のこと、僕がチェハとして生きていたことには触れないで、ウニョンと一緒に戻ってきた僕を当たり前のように受け入れてくれたんだ。そのお陰で僕はありのままの自分に戻って生き直せたと思うんだよ。だから、それを忘れないためにも毎年ここに帰って来たいんだ。」
「そうか。それも大事なことだね。でもオーストリアも忘れてもらっちゃ困るよ。あそこにも君の恩人はたくさんいるんだから。」
「もちろんだよ。僕を音楽家として育ててくれた所だもの。いずれ必ずリサイタルは開くよ。」
「そうこなくっちゃ。ウィーンには大学時代、一緒にコンサートをやったハンスやゲオルグもいる。君がリサイタルを開く時には二人とも駆けつけるって言ってたよ。ロンドンのジョンも是非聴きに来たいって。だから自分たちの予定と重ならないように日程を組めって、僕がウィーンを出る前に連絡してきた。気の早いやつらだ。」
「そう、それはうれしいね。みんな立派に活躍してるんだろうな。僕はまだスタートを切ったばかりだけど。もっともっと勉強しなくちゃ。」
「それはそうだね。レパートリーを広げて、さらに腕を磨くという意味ではまだまだ勉強が必要だ。演奏家の勉強に終わりはないからね。でもそれは他のみんなも同じことだよ。
 もしかしたら君はこの十年のブランクを心のどこかで気にしているかもしれないけれど、そんなこと考えるな。君のピアノは変わった。当然だよね、今の君と以前の君は違うんだから。今にして思えば、以前の君の音楽は胸の奥に押し込めた苦しみを越えようとする気持ちから発せられていたような気がするんだ。もちろんあの頃の僕にはわからなかったことだけど。でも君はもう苦しみは全部乗り越えた。今の君の演奏からは苦しみを越えられたことへの感謝、優しさ、そして前に向かって進もうとする力強さが感じられるんだ。この十年間、ステージには立ってなかったけど、君の音楽はずっと君の中で育っていた。先週の演奏を聴いて、そのことがよくわかったよ。
 だから遅れを取り戻そうとするんじゃなく、君が弾きたい曲を弾きたいように弾くんだ。先週の『子どもの情景』もショパンもモーツァルトも、聴く人の心を優しく包んで力づけるような演奏だった。昔の君にはできなかったことだよ。新聞の批評もほめていただろう?」
「ありがとう。頑張るよ。これから弾いてみたい曲はたくさんあるし、普通のリサイタル以外にも僕のピアノで誰かの役に立てることがあれば協力したい。それから大きな町での演奏だけではなく普段あまりコンサートが開かれない町でも演奏してみたい。」
「君は前にもそう言ってたね。大きなホールでのリサイタルより、小さな町でお客さんは少なくてもいいから静かに自分の音楽を聞いてもらえるようなリサイタルがしたいって。でもコンクール優勝者ともなると、都会での仕事が多くなってなかなかスケジュールがうまく調節できなかったんだよね。」
「ああ、でももうコンクール優勝者はいいだろう? あれから20年近く経つんだし。」
「そうだね。もう優勝者としてのタイトルより君自身の音楽で仕事をする時期だとは思う。じゃあまず早く二人で独立できるように頑張って。今はまだ他のアーティストとかけもちだから何かと制約もあるしね。この前も聞いたけど、まだウィーンに戻って来る決心はつかないかい? 君を待っているファンはヨーロッパ各地にたくさんいるんだ。」
「そのことを真剣に考え始めたのは先週のリサイタルが終わってからだから、まだ何とも。でも当面は僕が行ったり来たりするつもりでいるんだ。」
「どうしてだい?」
「僕のため、家族のため。僕はようやく再スタートしたばかりだし、早く仕事を軌道に乗せるためにもしばらくは自分のことに集中したいんだ。家族を連れてウィーンに行ったら、ある程度向こうでの暮らしに慣れて、それぞれの生活が落ち着くまでにはかなりの時間がかかるだろう? ドイツ語ができるのは僕だけだから、どうしてもいろんな場面で手を貸さざるを得なくなる。みんなをサポートしていたら自分の練習どころじゃなくなってしまうからね。」
「そうか…。確かに家族のこととなると、通訳を雇えばすむという問題でもないんだろうな。」
「ああ。それに子どもたちのことを考えるとあまり急がない方がいいと思うんだ。外国で暮らして韓国とは違った文化に触れることで得るものは大きいし、どの子にも一度は経験させたいことなんだけど、ある日突然外国で暮らすことがどれほど大変なことかは僕も身にしみて知ってるから、ある程度準備をさせてからの方がいいんじゃないかな。心の準備も言葉の準備もね。」
「なるほどね。だったら君にある程度余裕ができるまでの間、子どもたちは少しずつその気にさせたらどうだい。子どもの頃って好奇心が旺盛だから、自分の知らない世界に憧れたりするはずさ。僕もそうだった。自分の知らない土地に行ってみたかったし、珍しいものをたくさん見たかった。だからオーストリアや他のヨーロッパの国の写真なんかたくさん見せて、まずは旅行に連れて来いよ。それでここに住んでみたいと思うように仕向けてやろう。そういう気持ちになってから来ると馴染むのも早いと思うよ。ヘジンたちが喜びそうなもの、見つけたら送ってやるよ。」
「ありがとう。ヘジンにはいい刺激になると思う。あいつ、青山島を出ることには猛烈に抵抗していたけど、統営(トンヨン)に連れて行ったことで、この世には自分の知らないいろんな世界があることに気付いたらしいんだ。ソウルに行ってからは僕や父に韓国の他の地方のことや外国のことをいろいろ尋ねたり、自分で調べたりするようになったんだよ。ヘジンが何かやりだすとヘヨンも負けじと同じようにやろうとするから、ヘジンをその気にさせると早いかもしれない。」
「それはいいことだね。楽しみだ。ねえ、確かヘジンの名前って『広い世界に出て行く』っていう意味だったよね?」
「ああ、大きくなったらこの広い海へ自分の心が決めるままに自由に漕ぎ出してほしいと願ってつけた。」
「だろう? だったらその道筋を用意してやらなきゃ。」
 そこへウニョンがヘヒャンの手を引きながら、マリアと一緒にやって来た。
「おい、ヘヒャン。お前、何だか黄色いぞ。」
とスホは笑いながらヘヒャンを抱き上げた。
「ヘジンとヘヨンが菜の花畑でかくれんぼ始めたのを見て、二人を追いかけて中へ入っちゃったのよ。でもヘヒャンの背丈では菜の花にすっぽり隠れちゃうからかくれんぼにならないの。最後は出るに出られなくなって大泣きよ。」
とのウニョンの説明に、スホとフィリップは思わず微笑んだ。
「で、ご機嫌直しにお散歩しながら、マリアさんをあちこち案内してきたの。ヘジンとヘヨンはそれぞれ友だちに出会って遊びに行きました。ねえ、二人で何話してたの?」
「これからのこと。チェハや僕たちやみんなのこれから。ウニョン、Ich warte darauf, nach Wien von allem von dir zu kommen.」
「えっ、何て言ったの、フィリップ?」
 突然のドイツ語に、ウニョンは目を丸くした。
「『皆さんのウィーンへのお越しをお待ちしています』だって。フィリップに返事を催促されてたんだ。」
「ああ、そのこと…。ちょっと待ってね、フィリップ。すぐには決められそうにないのよ。
私は『行けば何とかなるだろう』って気楽に考えてたんだけど、お母様から『旅行に行くのとその土地で暮らすのとは訳が違います。そんなに甘いもんじゃありません』って叱られたというか、呆れられたというか。まず私がドイツ語をある程度話せるようになりなさいって。それからいずれ子どもたちをソウルの大学に行かせるのか、ウィーンの大学に行かせるのか、よく考えなさいって言われて…。ヘジンはもう小学3年生だしウィーンに何年も行ってたら韓国での受験に不利になるから、子どもたちを連れて行くならウィーンで大学まで行かせるつもりでいなさい、子どもに最善の道を考えてやるのが親の務めですって言われるんだけど、今からどこの大学に行かせるかなんて決められないじゃない? 私たちが決めることでもないでしょうし、かと言って子どもたちに今決めなさいってわけにもいかないし。」
「今からそんなことまで考えることはないさ。母さんは相変わらず教育熱心だから。」
とスホは笑った。
「すぐに決めなくていいよ。当分は僕が仕事に合わせて動くから。そうして暮らしながら家族としてこれからどう生きて行くかみんなで考えよう。以前は韓国からの演奏会の依頼は全部断っていたけれど、これからは韓国でも日本でも中国でも、僕を呼んでくれる所にはどこにでも行きたいと思うんだ。もちろんヨーロッパにもね。だからこれからどんな生活になるのか僕にもまだ見当がつかないんだけど、どこで暮らしても僕は今までのように毎日一緒にいられるわけじゃない。みんなでウィーンに行って僕が留守の時に何かあったら心配だし、だったら君や子どもたちはずっとソウルにいる方がいいかもしれない。ソウルなら僕の両親や君のお母さん、サンウの家族もカングもいるから、いざという時も心強いだろう。」
「とにかく、ウニョンはまずドイツ語をきちんと教わること。できたら英語もね。ママが勉強を始めたら、きっとヘジンとヘヨンは一緒にやりたがる。そうやって韓国で勉強しておいてオーストリアで実際に使ってみたら、言葉はじきに身につくよ。」
 そう言って、フィリップはウニョンにウィンクして見せた。
「わかったわ。でも私、あっという間にヘジンとヘヨンに抜かされるんじゃないかしら。子どもたちは学校でも英語を教わってるものね。」
「私もお手伝いしますよ、ウニョンさんのドイツ語のお勉強。ウィーンに来られたらいつでも相談してください。」
 フィリップの脇からマリアが声をかけた。
「ありがとう。助かります、マリアさん。あちらで頼れる人があるってどれだけ心強いことか…。」
「どうぞ、ご遠慮なく。チェハさんがウィーンでリサイタルされるのはいつ頃になるかしらね、フィリップ?」
「う~ん、まだわからない。先週のリサイタルが好評だったから、早速韓国内からリサイタルの依頼が来てるんだ。それに釜山からチェ・チャンホが聞きに来てくれて、なるべく早い時期に釜山でもリサイタルやってくれ、って言って帰ったよね。それは彼が自分で主催者を見つけてくるらしいからその話次第だけど、まずは韓国内でいくつかリサイタルをやってからだな。
 先週のリサイタルの記事はマリアが仕上げて早速ウィーンに送ったし、韓国でのリサイタルを成功させたらいずれウィーンやその他の所からも仕事の依頼が舞い込むはずだ。しっかり準備しておけよ、チェハ。」
「ああ、わかってるよ。」
 スホは静かに頷いた。
「これから私たちにどんな道が開けていくのかしらね。十年後の私たちはどこでどんなふうに暮らしているかしら。私が生まれて初めて飛行機に乗ってオーストリアに行った時、十年後にこんなことになってるなんて夢にも思わなかった。心配なこともあるけれど、でも楽しみよね。人生って予想通りにも思い通りにもならないけれど、何かのきっかけでまた新しい道が開けていくんだものね。」
そう言いながら、ウニョンはその場にはいないイナのことを考えていた。イナは一か月近くも留守にしてあちらでも仕事がたまっているからと青山島への同行は断って、リサイタルの数日後にウィーンへと戻って行った。先週の復帰リサイタル終演後、スホはイナのために演奏した「未来へ」という曲の自筆譜に
「我が友 ソン・イナさんへ
  心からの感謝を込めて
         Chris Yoon」
と書き入れて「本当にありがとう。これからもよろしく」と手渡した。イナは穏やかな笑顔を浮かべてそれを大事そうに受け取るとスホと握手し、続いてウニョンにも手を差し出した。ウニョンはイナと初めて会った時、彼女を姉のように思ったことを思い出し、無言のまま握手を交わしながら、イナがもう自分を責めることがないよう、そして彼女がこれからたくさんの幸せに恵まれるようにと祈った。この十年がイナにとっては予想だにしなかった辛い歳月になってしまったことを思うとウニョンの心は痛んだ。でも一つの区切りをつけた今、彼女も新しい道を見つけてほしいとウニョンは心から願っていた。
「もっともっと幸せになれるよ。君たちも、僕たちも。マリア、後でお祈りに行こう。必ず願いを叶えてくれる素敵な場所があるんだ。」
「もう行ってきたのよ。ウニョンさんに教わって、一緒に石を積んでお祈りしてきたの。」
「なんだ、後で連れて行こうと思ってたのに。いいよ、僕一人で行くから。」
 フィリップはそう言って少し悔しそうに笑った。
 いつの間にか、十数人の男の子たちが校庭でサッカーを始めた。その中でヘジンも久しぶりに出会う島の友だちと一緒にボールを追いかけながら、スホとウニョンに手を振った。
「青山島の子どもってバスケットボールはやらないのかな?」
「そう言えば、僕がいた頃から野球とサッカーだったな。」
「つまらないな。バスケットだったら教えてやるのに。でもいいや。ちょっと運動したくなったから、僕も仲間に入れてもらおう。チェハはダメだよ。明日、本番だから。」
 笑いながらそう言うと、フィリップは子どもたちの輪の中に走って行った。


 翌日は見事に晴れわたり、島の人々は昼食を済ませると三々五々小学校の体育館に集まってきて、会場の入り口で人々を出迎えるスーツ姿のスホと笑顔で挨拶を交わした。彼らはスホがまたピアニストとして再起できたこと、島に戻って来て自分たちのために演奏会を開いてくれることを口々に喜び、スホはみんなとの再会を喜び、ここまで足を運んでくれたことに対して感謝の気持ちを伝えた。
 演奏会用のグランドピアノは檀上ではなくフロアに置かれていた。それを取り巻くように並べられた椅子は開演予定時刻にはほぼ埋まり、スホはピアノの前に立つと聴衆の拍手に一礼した。
「皆さん、今日はお忙しい中、私のささやかな演奏会にお越しくださりありがとうございます。久しぶりにお目にかかれたこと、そして私の演奏を聞いていただけることをとても嬉しく思います。
 子どもの頃、私がこの島で過ごしたのはほんのわずかな時間でした。それにも関らず青山島での日々は韓国を離れて暮らしていた十五年間、忘れることのできない思い出としていつも私の心の中にありました。大人になって韓国に戻りこの島で家庭を持てたこと、この島で生まれた私の子どもたちが皆さんに見守られて元気に育ってくれたこと、何より幸せなことだと思っています。今までいろいろなところで暮らしましたが、私にとってふるさとと呼べるのは青山島だけです。これからも仕事の中心はソウルになりますが、私たち家族にとって大切なふるさとであるこの島に毎年一度は戻って来て、演奏を聞いていただく機会を作りたいと思っています。
 それでは始めます。最初の曲は私が島で暮らしていた時に作った組曲『島の四季』です。」  
 スホはピアノの前に腰を下ろし、自作の曲を弾き始めた。会場の片隅でウニョンは子どもたちと共に彼の演奏に耳を傾けながら、
「オッパ、今まで本当にありがとう。」
と心の中でスホに語りかけた。
「あなたはずっと自分のことよりも私のこと子どもたちのことを考えてくれたけど、これからはあなたの生きたいように生きてちょうだい。あなたが望むならどこへ行ったってかまわない。私は昨日こうお祈りしてきたのよ。『スホ・オッパがもう二度と大切なものを失うことがありませんように。そしてたくさんの人にスホ・オッパの音楽を届けることができますように。』って。私はいつまでもあなたについて行くから。」
 少し遅れて会場に入って来た少年が空席を探しているのに気づいて、ウニョンは自分の椅子を譲ってやると開け放たれている扉の傍に立ち、外を眺めた。戸外には民家や田んぼ、満開の菜の花畑や青々と実った麦畑、そして広い大きな海が広がっており、スホの奏でる音色は風に乗ってそれらすべてを越えて行った。それはあたかもスホの思いが大空を自由に羽ばたいていくかのようだった。
「響け、響け、どこまでも。スホ・オッパのピアノ、どこまでも響け。」
ウニョンはそっと囁いた。


                                           
                                           (The End)
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SPRING WALTZ     -ドラマの後の物語-

                        (10)

  復帰リサイタル当日の朝、スホは明け方近くに目を覚ました。起きるにはまだ少し早かったが彼はそのままベッドから出るとベランダに立ち、まだ明けやらぬ街を眺めた。彼は朝の冷たい空気を浴びながら自分の新しい出発の日の始まりを見届けようとしていた。間もなく東の空が明るくなり朝日が昇り始めると、彼は大きく息を吸い込んだ。ようやくこの日が来た。この日のためにできることは全てやりきった。あとはステージで思いのたけを込めて演奏するだけだと思いながら、彼は次第に明るくなっていく街を眺めていた。同じ頃フィリップもホテルの窓辺に立ち、この記念すべき日を迎えていた。チェハがピアノをやめてからも彼は別のアーティストのマネージャーとして働いてきたが、それが食べて行くための仕事の域を超えることはなく、彼は再び自分の全てを懸けようと思えるアーティストに出会える日を待ち続けてきたのだった。またチェハのマネージャーとして働ける喜びを噛みしめながら、フィリップは昇ってくる朝日を静かに見つめていた。


 朝食の用意をしていたウニョンはスホがベランダへ出て行くのを見て、緊張のためよく眠れなかったのかと心配したが、日の出を見届けて居間に戻ってきた彼が穏やかな表情で新聞に目を通し、次々に起き出してきた子どもたちとも普段通りに言葉を交わして朝食のテーブルに着き、ウニョンがヘジンの誕生祝いに作ったワカメスープをお代わりまでする様子にそれほど緊張しているわけではなさそうだと安堵した。
 スホは朝食を食べ終わると身仕度を済ませ、子どもたちに手を振って会場のナルアートセンターに出かけて行った。予定していた時刻よりも早めに出かけて行った姿にウニョンはこの日に懸ける彼の意気込みと気持ちの高ぶりを感じ、いつものように「行ってらっしゃい」と送り出しながら、心の中で「オッパ、しっかりね」と声援を送った。それからしばらくするとミョンフンとチスクが到着した。二人はウニョンが本番前のスホにできるだけ付き添ってやれるよう、子どもたちの世話をしに来てくれたのだった。ミョンフンとチスクはヘジンに誕生祝いのプレゼントを渡すと、ウニョンに後のことは構わず早く仕度をして出かけるように促し、ウニョンは手早くみんなの昼食を用意すると先日チスクから贈られた真新しいスーツに袖を通した。一か月ほど前スホのステージ用の衣装を誂える時、チスクは一緒に来てスホの燕尾服だけでなく、ウニョンには春らしいクリーム色のスーツ、ヘヨンにはピンクのワンピース、そして男の子たちには三つ揃いと蝶ネクタイをプレゼントしてくれた。そして恐縮するスホとウニョンに、「私、本当にうれしいんだからこれくらいさせてちょうだい。あなたの晴れの日なんだから家族もちゃんとしないとね。当日はマスコミも来るんでしょう? 誰に見られても恥ずかしくないようにしなくっちゃ。」
と、微笑んだのだった。
 リサイタルは二時からだった。ウニョンはチスクとミョンフンの心遣いに感謝しながら子どもたちを託して家を出ると、会場へと急いだ。
 ウニョンが十二時前に楽屋に着くと、スホはリハーサルを終えてヤンスンがスタッフ全員に差し入れてくれた弁当をフィリップと食べているところだった。
「リハーサルは終わったのね?」
とウニョンが声をかけるとスホは海苔巻きを頬張りながら頷き、フィリップは
「もうばっちりだよ。今まで何度か人前で弾いたって聞いてたからそんなに心配してなかったけど、先週小学校で演奏したのも良かったみたいだね。」
と、笑った。スホは二ヶ月ほど前から教会のチャリティーイベントで演奏したり、知人を招いて町の小ホールで小さなコンサートを開いたりして聴衆の前で演奏する機会を持っていたが、三月に小学生になったヘヨンが「私のアッパはとても上手なピアニストで、来月コンサートをするんです。」と教室で話したことが担任を通して校長の耳に入り、「是非、本校の児童に演奏を聞かせていただきたい」との校長の強い希望を受けて、十日ほど前にはヘジンとヘヨンが通う小学校でリサイタルプログラムの一部とポピュラーなピアノ曲を演奏したのだった。聴衆の大部分が小学生で、大人は先生方と一部の保護者だけ、しかも自分の子どもが通う学校ということで、演奏はうまくいったもののスホ自身は最初それまで経験したどんなリサイタルとも違う緊張感を味わって途惑ったのだが、久しぶりに数百人の聴衆の前で演奏することもできたし、今日は自分の慣れ親しんだ雰囲気の会場なのでほっとしているようだった。
「おまけに音楽の好きな先生やお母さんたちがまだ少し残っていたチケットを買ってくれて、お陰さまで完売。校長先生がクラシック好きで君の名前を知っていたのはラッキーだったけど、君は本当に親孝行な子どもを持ったよな。」
と、フィリップは心底感心していた。
 食事を終えるとフィリップはウニョンに家でのスホの様子を小声で尋ねると安心したように微笑み、仕事があるからと楽屋を出て行った。ウニョンはスホにコーヒーを入れたり、着替えに手を貸しながら家での子どもたちの様子などを話したりしていたが、身仕度を終えたスホが楽譜を手に取ったのを見ると、用があれば電話してくれるよう伝えて彼の邪魔にならないようにと静かに外に出た。どこへ行くともなく開場前のまだ薄暗いロビーの方に向かうと、そこにはお祝いのフラワースタンドがいくつか並んでおり、ちょうど向こうから書類を抱えて小走りにやって来たイナが花に気づいてふと足を止めたのを見てウニョンは声をかけた。
「イナさん、」
 イナは驚いたように振り向いたが、ウニョンに気づくと彼女に歩み寄った。
「ウニョンさん。今日は本当におめでとうございます。ようやくこの日が来たわね。」
 イナの思いのこもった言葉に、ウニョンも
「はい、ありがとうございます。何もかもイナさんのお陰です。治療法を見つけていただいたこと、こうしてリサイタルの準備をしていただいたこと、本当に感謝しています。」
と心からの感謝の気持ちを伝えた。
「お礼なんてよしてちょうだい。チェハはやっとステージに戻って来られたけれど、失われた十年余りの時間は戻らないんだもの。」 
 イナは辛そうに言った。ウニョンはイナを見つめながらしばらく考えていたが、やがて静かにこう言った。
「確かに過ぎ去った時間は戻りませんね。でもね、イナさん。あの人はこの十年余りをただ失っただけじゃないと私には思えるんですよ。イ・スホに戻って周りの人に何も隠す必要がなくなって自由に暮らせたことは、彼にとって幸せなことだったと思うんです。一度は失ったものをまた取り戻せたことに感謝して一日一日を大切に過ごしていましたし、彼の心がどんどん穏やかに伸びやかになっていくのがそばで見ていてよくわかりましたから。
 でもその一方で思うようにピアノが弾けなくて辛い思いをしていました。そんな彼を見ていても祈ることしかできない自分が情けなくて…。あの日、私がコンサートに行かなければ彼はピアノを失わずにすんだんじゃないか、と何度も思いました。だからイナさんが治療法が見つかったと知らせてくださった時、私は本当にうれしかったし、ありがたかったんです。
 たくさんの方に支えていただいて、彼はようやくまたステージに立てるようになりました。これから彼の本当の人生が始まるんだと思います。スホに戻った時と同じように、彼は一度失ったピアノをまた取り戻すことができた感謝と喜びを胸に刻んで演奏活動をしていくと思います。この十年のブランクがこれからの彼を作っていくんじゃないか。そんなふうに思えるんですよ。」
「ウニョンさん…」
 ウニョンの思いがけない言葉に、イナは咄嗟に言うべき言葉が見つけられずにいた。でも
「私には音楽の世界のことは何もわかりません。イナさんとフィリップが頼りなんです。ですからイナさん、これからもよろしくお願いします。」
と頭を下げるウニョンにようやく笑顔で頷いて見せると、
「じゃ、仕事があるからまた後でね。」 
と、ウニョンに背を向けてその場を後にした。
 足早に歩きながら、イナは
「ウニョンさんって、やっぱり不思議な、でもすごい人…」
と呟いた。この十年余りの時間は彼にとっては失われた時間だとしか自分は考えられなかったのに、ウニョンがその時間にも意味を見出していることは、イナにとって驚き以外の何物でもなかった。でもその失われた時間からも生まれるものがあるという言葉と自分に心から感謝してくれたウニョンに、イナは力づけられた気がしていた。


 一時三十分の開場に合わせて、ミョンフンとチスクが子どもたちを連れて到着した。子どもたちがスホに会いたがったので、ウニョンはフィリップの了解を得て子どもたちを楽屋に連れて行き、わずかな時間だったが父親と対面させてやった。そしてロビーに戻るとミョンフンたちに上の二人を預け、ヤンスンの到着を待って一緒に親子鑑賞室へと向かい、そこでヘヒャンを託してようやく自分の席に着いた時には客席はもうほとんど埋まっていた。
「オンマ、いっぱいの人だね。僕、何だかドキドキしてるんだ。」
「大丈夫よ。アッパはきっと立派にやってくれるわ。」
 ヘヨンもチスクの隣で緊張気味に座っていた。ウニョンがヘヨンに微笑みかけたところへ、カングが
「セーフ! 何とか間に合った!」
と駆け込んで、ミョンフンの隣の席に滑り込んだ。
 開演十分前にスホは舞台袖に出て来てフィリップとイナに無言で頷いて見せると、ステージの中央に置かれたピアノをじっと見つめた。フィリップは彼が多少の緊張感を漂わせながらも穏やかで堂々としているのを見て、今日のチェハは大丈夫と確信した。ひと言も話さずにただピアノを見つめる姿に、フィリップはいよいよ始まるリサイタルにかける彼の静かな意気込みを感じ取っていた。そしてまるで自分が演奏するかのように表情を硬くしているイナの肩を叩くと、
「チェハ、久しぶりのステージ、楽しんで。」
と明るく声をかけた。
 開演時刻を過ぎスホがステージに姿を現すと、聴衆は大きな拍手で彼を迎えた。この拍手。かつて青山島で潮騒の彼方に何度も聞いた拍手の中、彼はステージ中央に進むとしばし満場の聴衆を見つめ深々と頭を下げた。彼がピアノの前に座ると客席には一瞬張りつめた空気が流れたが、彼が最初の曲を弾き始めるとホールはたちまち柔らかく温かな音色で満たされた。
 モーツァルト作曲、ピアノソナタ第11番 K.331。優雅でたとえようもなく美しい旋律で始まり、それが六通りに姿を変える第一楽章、「トルコ行進曲」と呼ばれる第三楽章を持つこの曲は、モーツァルトのピアノソナタの中でも最もよく知られた曲の一つであり、練習室で何度も聞くうちにヘジンはこの曲が大好きになっていた。復帰リサイタルが自分の誕生日に決まったと話してくれた時、スホは「たまたまホールが空いてたんだよ」と笑ったが、ヘジンは「お前との約束はきっと守るよ」という父からのメッセージを感じていた。それだけに彼は冒頭からドキドキしながら耳を傾けていたが、いつものように、いやいつも以上に美しく響くピアノの音色にいつしか緊張も解けモーツァルトの世界に引き込まれていった。アッパはすごい、とヘジンは思った。今までにも何度も聞いた曲だけど、今日の演奏が一番だ。こんなにたくさんの人が聞いているのに、アッパは緊張しないんだろうか? ライトは眩しくないんだろうか? こんなステージで立派に弾けるなんてアッパは本当にすごい。
 曲は第二楽章のメヌエットを経て第三楽章のトルコ行進曲に進んだ。軽快に奏でられるロンドがトルコの軍楽隊の小太鼓の響きを模したと言われる伴奏に乗ってフィナーレへと進む頃にはヘジンの胸はうれしさと感動で一杯になっていた。最後まで弾き終えたスホが立ち上がって一礼するとヘジンは周りの聴衆とともに力いっぱいの拍手を送った。


 スホが舞台袖へ引き上げてきて「どう?」と言うように軽く首を傾げて見せると、フィリップは
“GOOD !”
とウィンクして見せた。そして、
「先週までリサイタルやってたみたいだぞ、チェハ。その調子で楽しく弾いてこい。」
と彼の肩を叩いた。
 スホは水をひと口飲むと、再びステージに向かった。そしてピアノの前に腰を下ろしてひと呼吸おくと、二番目のプログラム、シューマン作曲の「子どもの情景」を弾き始めた。スホを舞台袖で見守っていたフィリップは、昨年十二月に彼がウィーンに来た時にリサイタルで「子どもの情景」を弾くと聞かされた時のことを思い出していた。かつてのクリス・ユンはリサイタルではもちろん、練習すらしたことのない曲だった。意表を衝かれて咄嗟に言葉も出ないフィリップに、スホは「驚いた?」と悪戯っぽく笑い、「今の僕の日常を表現してみたくなったんだ。」と言った。そして
「シューマンは『この曲は子どものための曲ではなくて、むしろ年取った人の回想であり、年取った人のためのものだ』って書いているけど、僕にとっては『回想』じゃなくて、『今』なんだ。もちろん、ほんの少しは『回想』だけど。わかるかな?」
と言った。
 演奏を聴きながら、フィリップは
「やっとわかったよ、チェハ」
と心の中で呟いた。「今の君はこの曲のように本当に温かくて幸せだもんな。」
 ウィーンと韓国に離れて暮らした十年余りの間もスホとは二、三年に一度は顔を合わせており、会うたびに彼が穏やかで明るくなっていることをフィリップは感じていたが、フィリップの仕事の都合で韓国に来ても青山島までは足を延ばせないことが多く、たいていはスホがソウルや安東まで出向いていた。今回ソウルのスホの自宅を訪ねて初めてフィリップは三人の子どもの父親になった彼の日常に触れたのだが、彼の家庭の温かさにフィリップ自身が慰められ、子どもたちと共に過ごす楽しさに心癒された。開演前にウニョンが子どもたちを楽屋に連れて来た時には、子どもたちが自分に会いに来ると聞いて、スホは自ら彼らを廊下に出迎えた。そして正装した父親を見るなり駆け寄って燕尾の下に潜り込んで遊び始めたヘヒャンを素早く抱き上げると、可愛らしいピンクのワンピースを着たヘヨンの頭を優しく撫でてやり、少し離れたところに立って緊張した面持ちでじっと自分を見つめているヘジンには力強く頷いて見せていた。かつてリサイタル会場には必ず一人で移動し、自分以外は誰も寄せ付けなかった気難しいピアニストのこの変わりように、フィリップは彼の内面の変化や成長をじかに感じ、この曲を選んだ彼の気持ちを理解することができたのだ。
 チェハが演奏家として新しい世界に足を踏み入れたことをフィリップは感じ取っていた。これから彼はどんな世界を自分たちに聴かせてくれるんだろう。どんな世界に連れて行ってくれるんだろう。彼が最後の「詩人のお話」を弾き終えた時、フィリップの心は未来への大きな期待や希望でいっぱいだった。そしてほっとしたように戻って来た彼を心からの拍手で出迎え、「ブラボー、チェハ」と声をかけた。


 祈るような思いでスホの演奏に耳を傾けていたウニョンは、彼の落ち着いた演奏ぶりと優しく心にしみ入るピアノの音色にホッと胸を撫で下ろしながらも、休憩時間になると親子鑑賞室までヘヒャンの様子を見に行き、ロビーに戻って来たところで出会った小学校の先生たちや保護者一人ひとりに足を運んでくれたお礼を言っているうちに後半再開のベルが鳴った。
 リサイタルの後半、ステージに出てきたスホは前半よりはリラックスしているように見えた。実際、彼にはリサイタルを楽しむ余裕が生まれていた。これまでの客席の反応も良かったし、休憩時間にロビーにいたグリーンミュージックの社員から聴衆が彼の演奏を口々に褒め、後半のショパンを楽しみにしている様子が伝えられたことで彼自身の気持ちもさらに高まったのだった。後半の一曲目、ショパンのワルツ第2番作品34‐1の華やかな序奏を弾き始めてからはピアニスト クリス・ユンの独壇場だった。彼の選んだショパンのワルツ、ノクターン、エチュード、プレリュードなどが次々と奏でられ、聴衆はみな彼の生み出す世界に引き込まれていった。彼はこのひとときを心から楽しんでいた。かつて最も得意としていた大好きなショパンを大勢の聴衆の前で演奏できる幸せと喜びを噛みしめながら、一曲一曲心を込めて弾き続けた。そしてプログラム最後のバラード第1番を弾き終えたスホが立ち上がると、会場は割れんばかりの拍手喝采と「ブラボー」の掛け声に包まれた。
 スホは聴衆に向かってゆっくりとお辞儀をして舞台袖に戻り、目にいっぱい涙をためているイナに微笑みかけフィリップとハイタッチを交わすと聴衆の拍手に答えて何度も舞台に現れたが、何度目かのカーテンコールで一礼すると、そのままピアノの前に立った。そして聴衆が静かになるのを待って話し始めた。
「皆さん、今日は私の久しぶりのリサイタルにお越しいただきましてありがとうございました。またこうしてステージに立つことができ、これほどうれしいことはありません。
 十一年前のこの同じステージでのリサイタルを最後に演奏活動を休止していたのは、私の不注意で右手の指を痛めてしまったためです。当時あちこちの病院を訪ねましたが指を治す方法は見つからず、時間がたつにつれて誰もが諦めかけていました。そんな中で一人の友人が粘り強く治療法を探し続け、とうとう見つけてくれました。私をまたステージに呼び戻してくれた友人に心からの感謝を込めて、この曲を贈ります。」
 ようやくアンコールを迎えてホッとしていたイナは、思いがけないスホの言葉に驚き、舞台袖に立ち尽くしていた。曲は冒頭不安や恐怖・後悔など内面の葛藤を表すような暗い旋律で始まったが、程なく長調へと転調したかと思うと、黒い雲の切れ間から明るい光が差し込むように穏やかで優しい調べに変わり、それに耳を傾けているうちにイナの目から涙が静かに溢れ出した。
「僕のケガは君のせいじゃない。もう自分を責めないで」と、それまでに何度も言ってくれたスホの言葉が、彼の音楽と共にイナの心にすーっと沁み込んできたように感じられて、温かいものがこみ上げてきたのだった。イナはハンカチで口元を覆うと、そっと楽屋へと走り出た。そして後ろ手にドアを閉めるとしばらくの間はらはらと涙を流していたが、やがて「ありがとう」と震える声で呟いた。


 ステージではアンコール演奏が続いていた。リサイタルで取り上げられなかったショパンの小品や彼自身の作品が次々と演奏され、聴衆は惜しみない拍手を送った。ミョンフンは目を潤ませて何度も頷きながら、チスクは既にぐっしょり濡れたハンカチを握りしめながら、手を叩き続けていた。ステージでお辞儀をしたスホとたまたま目が合ったカングは小さくガッツポーズをして見せた。そしてヘヨンは一曲ごとに拍手喝采を受ける父親の姿に目を輝かせながら小さな手を叩き続けていた。
 スホは最後のアンコール曲「クレメンタイン」を弾き始めた。懐かしいそのメロディーにウニョンは彼がこれまでに歩んできた長い道を思った。そして演奏を終えた彼が立ち上がった時、父親を尊敬の眼差しで見つめながら
「オンマ、アッパは約束を守ってくれたね」
と言ったヘジンに何度も頷くと、ウニョンは力いっぱい手を叩きながら万感込めて
「オッパ、おめでとう」
と囁いた。

                                                                     (to be continued)

SPRING WALTZ    -ドラマの後の物語-

                        (9)

 クリス・ユンの復帰リサイタルは四月十五日に決まった。会場は以前にも演奏したソウルのナルアートセンターだった。三人で打ち合わせをした二日後、イナは申し訳なさそうに言った。
「その日だとナルアートセンターしか取れないそうよ。それも問い合わせた時には空きがなかったんだけど、その後でキャンセルが出たからすぐに押さえたんだって。でもチェハ、嫌じゃない? あんなことがあったホールで復帰リサイタルなんて。週末はどこももういっぱいだけど、平日なら別のホールが使えるわよ。」
「かまうもんか。」
 スホは笑い飛ばした。
「全然知らないホールより気が楽だよ。それに僕にはどのホールでやるかってことより、その日にできることの方が大事だからね。」
 ソウルに戻ったスホは四ヶ月後に迫ったリサイタルに向けて、毎日着実に準備を進めていった。久しぶりにウィーンを訪れたことで、かつて演奏家として活躍していた頃の自分を改めて思い出し、練習にも一段と熱が入るのだった。イナはウィーンからポスターやチケット、プログラムの作成、新聞・雑誌への広告の手配、テレビやラジオの音楽番組への紹介などの指示を次々に送って広報活動に力を注ぎ、リサイタルの準備に万事手落ちがないか目を光らせた。
 十余年前、韓国音楽界から凱旋公演を熱望されながら、ただ一度リサイタルを開いただけで演奏活動を中止してしまった幻のピアニスト クリス・ユンの復帰リサイタルということで、数多くの新聞社や音楽誌出版社からリサイタルに先立って取材の申し込みがあり、各社からの質問に個別に答えるのも面倒だと考えたスホは、イナと相談の上記者会見を開くことにした。
「またステージに立つ前に、いろんなことをはっきりさせた方がいいと思っていたんだ。演奏活動を始めてから昔のことを調べられたり勝手に書かれたりするのも嫌だし、一社ずつ取材を受けるより一度に済ませた方が後の面倒も少ないだろう? 僕は何を聞かれても大丈夫だよ。」
 イナは自分も記者会見に立ち会う、と急きょ帰国してきたが、スホは質問がプライベートなことに及んでイナが傷つくのを心配し、それを押し止めた。そして一人で会見に臨むと記者たちの質問に答えて、十一年前自分の不注意から右手の人差し指と中指を切り、感覚神経を傷つけたため演奏活動が続けられなくなったこと、三年前に感覚神経を再生する方法が見つかったのでアメリカに渡って治療を受けたこと、指の感覚がほぼ元通りになったので演奏活動の再開を決めたことを話した。
「傷められた指は完治されたんですね?」
「はい。お陰さまで、もう演奏に支障はありません。」
「右手を傷められてから、ずっと復帰を目指して治療法を探し続けられたのだと思いますが、なかなか治療法が見つからなかった頃のお気持ちは?」
「そうですね。何年もの間、復帰のために治療法を探し続けた、というより、自分の納得のいく演奏を模索し続けた、というのが一番ぴったりします。私は元のようにステージには立てなくても、やはりピアノを弾かずにはいられませんでしたし、何とか自分らしい演奏をしたいと思い、自分の手で弾けるようにアレンジしたり自分で曲を作ったりいろいろ工夫して演奏していました。でも八本の指でピアノを弾いて自分の思い通りの表現をするというのはやはり簡単なことではありませんので、ずっと試行錯誤の連続でした。」
「治療法が見つからなくて、もう諦めようと思われたことはありませんでしたか?」
「ピアノを弾くことをやめようと思ったことはありませんでした。先ほどもお話ししたように、ピアノを弾かずにはいられませんでしたから。治療法が見つからないまま年月が経ち、いつの間にか手を治して元のようにステージに立つことより、自分の納得のいく演奏をすることが自分にとっての目標になっていたのかもしれません。実際に地元の方の前で何かの機会に2、3曲演奏したこともありましたし、たとえ指が治らなくて昔弾いていたような曲は弾けなくても、自分で作曲・アレンジしたもので自信を持ってステージに立てるようになれば、演奏活動を再開しようと思ったかもしれません。」
「そうでしたか。様々な葛藤を経てここまで来られたのですね。ところで、以前お父様であるユン・ミョンフンさんが子どもだったあなたを誘拐して自分の子どもにしたのではないか、という疑惑が生じた時、あなたは記者会見で自分はユン・ジェハだと証言されましたが、今はイ・スホというお名前で生活されています。プライベートなことですが、そのあたりの事情をお聞かせいただけるでしょうか。」
「私の本名、というか元々の名前はイ・スホです。そして実の父親はイ・ジョンテです。十一年前の記者会見で、私は皆さんに自分の本当の名前とユン・ジェハとして生きるようになったいきさつをお話しするつもりでした。ところが思いがけなく私の実の父が会見場に現れて、私のことを自分の息子ではない、と証言したことで心が揺らぎました。
 私の実の父は定職にもつかず、博打で借金を作っては借金取りから逃げ回り、子どもだった私が足手まといになると置き去りにして行方をくらませる男で、私は子どもの頃何度も父に捨てられました。それなのに十一年前、ソウルで十五年ぶりに再会してから、父は大人になった私にたびたび会いに来るようになりました。私はそんな身勝手な父が許せず、父に背を向け続けていました。その父が記者会見で、私はスホではないと証言した姿に、私は初めて父の深い愛情を感じ、父の気持ちに逆らえなくなりました。それで自分はユン・ジェハだと言ったのです。」
 スホはそこでひと息ついた。
「それから私を引き取って育ててくれた父ユン・ミョンフンは私を誘拐したわけではありません。ユン・ジェハと私は、子どもの頃瓜二つと言えるほどよく似ていたんです。そのチェハが亡くなった後、韓国に一時帰国していた両親と私が偶然出会った時、母はまだチェハが亡くなったことを受け入れられずにいたため、私を見てチェハが戻ってきたのだと思い込みました。父は母のためにしばらくの間、自分たちと一緒にいてくれないかと私に頼みました。その頃、実の父は行方不明で私は住む所もなく食べる物にも困っていましたので、父の申し出を受けて一緒にカナダに渡ったんです。そしてそのままユン・ジェハとして暮らしたのです。ですから確かに手続き上の不備はありましたが、あれは誘拐ではありません。
 私がユン・ミョンフンの実子かどうかを尋ねられた皆さんに嘘を言ったことはお詫びしなければなりません。でも私には二人の父がいるのです。私をこの世に送り出してくれた父と、人として育ててくれた父が。この二人の父がいなければ、今の私は存在しません。私にとっては二人とも父ですし、私は二人の息子なのです。」
「では何故、今はイ・スホと名乗っておられるのですか?」
「十一年前の記者会見の直後に実の父は亡くなり、私もピアノを止めました。死ぬ直前に初めて親らしい心を見せてくれた父親をようやく受け入れられるようになりましたし、新しい生活を始めるにあたって、元のスホに戻って一からやり直したいと思ったんです。もちろん育ててくれた両親には心から感謝していますし、大切に思っています。今の私があるのは両親のお陰なのです。名前が変わったからといって、両親との親子の絆が弱くなるものではないと思っています。」
「前回の記者会見ではソン・イナさんとの結婚も発表されましたが、今は別の方と結婚されていますね。ピアノをやめられたことで、お二人の間もうまく行かなくなったのですか? それともあの発表はご自身をユン・ジェハだと証明するためのお芝居だったのですか?」
 ある大衆誌の記者からの質問に、スホは
「違います。なぜソン・イナさんと結婚しなかったのか、そしてなぜ今の妻と結婚したのかはプライベートなことですので、ここでお話しする必要はないと思います。」
と静かに答えた。
「では最後にこれからの演奏活動への抱負をお聞かせいただけますか。」
「以前も音楽の素晴らしさを伝えたくて演奏していました。多くの人に支えられてまた演奏できるようになったことを本当にありがたく幸せに思っていますし、これからは求められればどこへでも行って多くの方々と音楽の素晴らしさを分かち合いたいと思っています。」
 スホのこの言葉で記者会見は終わった。記者会見の成り行きが気がかりで、隣の部屋で様子を見守っていたイナはほっと安堵の息をついた。
「チェハはすっかり立派になった。」
 今日の記者会見での姿から、かつてチェハとスホの間で揺れ動いていた青年が、今では一人の人としてしっかり根を下ろし、人生の新たなステージへと力強く歩みを進めていることが感じられた。かつての自分は彼に自分のチェハであることを強いていたのだと、イナは改めて自分の行為を悔いたが、だからこそ何としても彼の復帰リサイタル成功のために力を尽くしたいと心から思った。彼女はソウルのオフィスに戻るとリサイタルの準備が順調に進んでいることを確認し、一旦ウィーンへと帰って行った。


 間もなくスホの写真や記事が掲載された新聞や雑誌が相次いで発行され、それを見たヘヨンとヘヒャンは目を丸くした。
「ねえ、オンマ。ピアニストになると、みんな新聞に出るの?」
と尋ねるヘヨンに、ウニョンは
「みんなじゃないわよ。特別な時だけよ。アッパは今度久しぶりにリサイタルをやるから特別なの。」
と話した。
「ふうん。アッパは有名な人になったみたいね。かっこいいけど、何だか別の人になっちゃったみたい。」
「アッパはあなたたちが生まれる前は本当に有名なピアニストだったのよ。ラジオやテレビに出たこともあるし、こうして記事が出たこともあったのよ。だからアッパのことを覚えている人もたくさんいるし、その人たちにまたコンサートしますよ、ってお知らせしているの。それにアッパのことを知らない人にも聴きに来てもらいたいでしょう? でもアッパはずっとあなたたちのアッパなんだから、心配しなくていいのよ。」
「そう。よかった。」
 ウニョンとヘヨンのやりとりを聞きながら、ヘジンは記者会見の写真や記事から父親のリサイタルがいよいよ間近に迫ってきたことを感じていた。一昨年の春に統営音楽祭で見たようなピカピカとライトの当たるステージでもうすぐアッパがピアノを弾くんだと思うと、彼はまるで自分が演奏するような緊張を覚えるのだった。週末になるとヘジンは父親に付いて行って、練習の様子を見守ることもあった。曲の最初から最後まで通して弾いたり、気になるところを何度も何度も繰り返して弾く父の後ろ姿に家で寛いでいる時とは全く違う厳しさを感じ取り、ヘジンは思わず居住まいを正すのだった。
 ある日曜日、午前中の練習を終えて家に帰るスホと並んで歩きながら、ヘジンはこう尋ねた。
「ねえ、アッパ。練習って楽しい? あんなに練習して嫌になったりしない? 僕だって難しい曲は何回も弾くけど、アッパみたいに長い時間は続けられないよ。」
「嫌になったりはしないさ。アッパはステージでいい演奏がしたい。聴きに来てくれた人にいい音楽を聴いてもらいたい。そのために練習するんだ。良い演奏をするには練習するしかないからね。大変なこともあるけど、思い通りの演奏ができて、お客さんが喜んでくれたら本当に最高の気分だよ。それにヘジンと約束したろう?『たくさんの人に喜んでもらえるピアニストになる』って。だからアッパは毎日練習するんだ。」
「ふうん。アッパ、すごいね。」
「いや、演奏家としては当たり前のことだよ。」
「ううん。アッパ、かっこいいよ。」
「え?」
「一生懸命頑張ってるアッパ、本当にすごいし、かっこいいよ。コンサート、頑張って。」
 そう言うと、ヘジンはそっとスホの手を握った。スホはヘジンの思いがけない言葉に一瞬言葉に詰まったが、息子の手をしっかり握り返すと優しく頷いて見せた。二年前ソウルに引っ越して本格的に練習を再開してから、ヘジンの自分に対する関わり方が以前と違ってきていることにスホは気づいていた。ヘヨンやヘヒャンのように自分にまとわりつくことは少なくなった。その日の出来事を無邪気に報告する子どもらしい姿も見せる一方で、黙って自分の背中を見つめている少し大人びた視線を感じさせるようになったのだ。それはもうすぐ小学三年生になるヘジンの成長のせいかもしれないが、統営音楽祭での演奏にふれたことと無関係ではないように思われた。自分がステージに立つために懸命に努力している自分をヘジンはじっと見守ってくれているのだとスホはいつも感じていた。そしてヘジンの視線を感じるたびに、スホは励まされると同時に大きな責任も感じるのだった。子どもが成長していくにつれて、親を見る目、親との関わり方は変わっていくことだろう。今日、初めて「かっこいい」と言ってくれたヘジンが、いつの日か自分に対して反発したり厳しい目を向けてくる日が来るかもしれない。将来のことはまだ想像もつかないけれど、子どもたちに対して恥ずかしい生き方だけはするまいと、ヘジンと手をつないで歩きながらスホは自分に言い聞かせた。


 リサイタルの三週間ほど前にフィリップとイナが相次いでソウル入りし、準備の最終チェックに入った。そして本番二日前にフィリップの婚約者マリアがウィーンから到着したので、スホとウニョンは二人を自宅に招いて歓迎と婚約を祝うパーティーを開いた。ヘジンとヘヨンは初めてのオーストリアからのお客さまに大はりきりで、スホにドイツ語の挨拶を教えてくれとせがんでこの数日熱心に練習を繰り返していたのだが、いざ二人が到着し、美しい金髪と青い目を持つマリアに
「こんにちは、初めまして。私はマリアです。仲良くしてくださいね。」
と流暢な韓国語でにこやかに話しかけられるとすっかり拍子抜けしてしまい、せっかく練習したドイツ語が出てこなかった。
「なんだ、お前たちあんなに練習したのにどうした?」
スホに背中を押されて、二人は覚えたばかりのドイツ語で
“Es freut mich, Fräulein Schuler. Ich bin Lee HaeJin. Ich bin Lee HaeYeong.
Ich freue mich, Sie kennen zu lernen.”
(初めまして、シューラーさん。僕はイ・ヘジンです。私はイ・ヘヨンです。お会いできてうれしいです)。
と、たどたどしく歓迎の挨拶を述べた。マリアは優しい微笑みを浮かべて二人の挨拶を受けると、腰をかがめて二人の目を見つめ、
“Danke schön.”(どうもありがとう)
とドイツ語で礼を言い、
「たくさんたくさん練習してくれたのね。とてもうれしいです。私のことはマリアと呼んでくださいね。」
と二人を抱きしめた。その様子を見守っていたウニョンは、小さな子どもにもきちんと向き合ってくれるマリアの人柄にひかれ、ようやく大仕事を済ませてホッとしたように自分に駆け寄ってきたヘヨンの肩を抱きながらマリアと初対面の挨拶を交わすと、二人を中へ招き入れた。夕食にはミョンフンとチスクも合流し、テーブルにはウニョンの心尽くしの手料理やヤンスンから届けられた海苔巻き、ミョンフン持参のワインやチスクお手製のケーキなどが所狭しと並べられ、韓国語に時折ドイツ語の交じる一同のおしゃべりは途切れることがなかった。
「マリアさんって、本当に素敵な人ね。優しくて温かくて、お話ししていると何だかほっとできるわ。」
 二人がホテルに引き揚げるのを見送りながら、ウニョンが言った。
「ああ、ほんとだ。何て言うか、人の気持ちを酌める人なんだろうな。口数は多くないし、みんなの中心で会話をリードするタイプでもないけれど、ひと言ひと言に心がこもってるね。フィリップが彼女には何でも話せると言った意味がよくわかったよ。昔のあいつのガールフレンドとはタイプが違う。前はルックスとフィーリングにピンと来たら追いかけてたんだ。でもようやく自然に寄り添える人を見つけたんだね。」
と、スホはしみじみと言った。
「そうなの? でもマリアさんだってきれいな人じゃない? 笑顔がとってもチャーミングよね。オーストリアの人にしては小柄だし、人目を引くタイプじゃないかもしれないけど、また会いたい、またお話ししたいと思える人だわ。」
「そうだね。あの二人の出会いに僕が少しだけでも役に立てたのがうれしいよ。」
「本当だわ。あのね、さっきマリアさんが後片付けを手伝いに来てくださった時に『フィリップのどんなところが好きになったんですか?』って聞いてみたの。そうしたらマリアさんは『フィリップはいつも明るくて楽しくて私を元気にしてくれます。でもそれだけでなくフィリップは人の心の痛みを受け止められる強さと優しさを持っています。そんなところにひかれました』って。それからね、『不思議ですね。チェハさんの話を聞いているうちに、フィリップのことを好きになっていたんですよ。』とも言ってたわ。あなたとフィリップの出会いのかけがえのなさに心を打たれたそうよ。でもフィリップとマリアさんもそうよね。あの二人きっと幸せになれるわ。とってもお似合いだし、フィリップがマリアさんの隣で安心しきった様子で寛いでたもの。」
「安心できるって大事なことだ。僕は君のそばが一番安心。」
 そう言ってスホは笑いながらウニョンの肩を抱いた。
「まあ、ありがとう。」
 ウニョンもスホの目を見て微笑んだが、ふと思い出したように尋ねた。
「あ、あなた明日の晩はホテル取らないで本当に大丈夫? うちはこの通りの状態だから、うるさくて音楽に集中できないんじゃない?」
「大丈夫。昔のチェハはいつも一人だったから、本番前も一人が一番落ち着いた。でも今はこの賑やかな我が家が一番落ち着くんだ。みんなと一緒に朝ご飯食べて、少し早めに会場入りするよ。君は後で来てくれればいい。」
「わかったわ。いよいよね。」
「ああ、いよいよだ。楽しみだよ。」
と、スホはウニョンに笑顔を向けた。






            参考文献:「いちばんやさしいドイツ語会話入門」 
                        渋谷哲也著  池田書店

SPRING WALTZ   -ドラマの後の物語-

                                     (8)

  ソウルに越して二度目の冬を迎える頃、スホはフィリップに言われた「二年後」にリサイタルを開ける、という手ごたえを感じられるようになっていた。以前演奏活動をしていた時と同じだけのレパートリーが持てたわけではなかったが、これまでに練習して自分のものにできた曲の中から十分にリサイタルプログラムを組めるし、もうステージに立っても大丈夫だと感じたのだ。
 ところがようやくここまでこぎつけたというのに、この頃からスホとフィリップは復帰リサイタルを巡って口論を繰り返すようになった。復帰リサイタルはウィーンを皮切りに、かつて演奏会を開いたヨーロッパの各都市を回るべきだと主張するフィリップに対して、スホはソウルで再スタートを切りたいと譲らなかったのだ。平行線を辿る二人の議論を見かねてイナも加わり、三人で電話やメールで何度も協議を重ねたが意見の一致は見られそうになく、スホの相変わらずの頑固さにフィリップもとうとう降参した。スホのリサイタルなのだから本人の意思が最優先で、フィリップといえども無理強いすることはできなかったのだ。しかしそれでもフィリップはスホをウィーンへと呼んだ。
「とにかく一度こっちに来ないか。どこでやるにしても君の十年ぶりの再出発なんだから、ちゃんと顔を合わせて打ち合わせをしたいんだ。イナも君の復帰リサイタルには尽力を惜しまないと言ってくれているから、三人できちんと話を詰めておこうよ。まあ出発式だ。あいにくイナも僕も今はいろいろ用事があってソウルまでは行かれないから、君が出てこい。昔、演奏家として活躍していた街を訪ねるのもきっと刺激になるはずだ。それにリサイタルまでに会って話しておきたいこともあるからね。」
 そんな訳で、スホは十年ぶりにウィーンを訪れた。十二月のとても寒い日でウィーンの街は前日から降り続いた雪で一面真っ白に覆われていたが、そこここに見られるクリスマスの飾りが街に華やぎを添えていた。
「相変わらずクリスマス市が立ってる。意外に変わってないね。十年前のままじゃないか?」
 空港まで迎えに来てくれたフィリップの車に乗ってウィーンの街を走りながら、スホが言った。
「懐かしいだろう? この街は変わらないよ。あちこち行ってみたいところもあるだろうけど、今日はこのままイナのオフィスに急ごう。さっきイナから電話があって、今日の午後に会うはずだった人が明日に変えてくれと言ってきたので急に時間が空いたんだって。イナは今いくつも仕事を抱えていていつまた予定が変わるかわからないから、打ち合わせは今日中に済ませてしまおう。」
 グリーンミュージック・ウィーン支社ではすっかりドイツ語が堪能になったイナがてきぱきと仕事をこなしていたが、二人を見るとにっこり笑って立ち上がり、書類と揃えると小さな会議室へと二人を導き入れた。
「着いたばかりなのにごめんなさいね。急に予定が変わっちゃって…。チェハ、久しぶりね。十年ぶりのウィーンはどう?」
「ここは変わらないね。何だか安心したよ。」
「そうね、確かにソウルはどんどん変わってきているわね。帰るたびに驚かされるもの。最近では私もこっちにいる方が落ち着くようになっちゃった。さあ、先に大事な話を済ませちゃいましょう。チェハの復帰リサイタルの開催地だけど、ソウルで決まりでいいのね? フィリップもOKね?」
「あれだけ言っても本人がうんと言わないんだから仕方がない。でもピアニスト クリス・ユンのホームグラウンドはここヨーロッパだったんだ。ここで始めるのが当然だと僕は今でも思っている。
チェハ、もう一度だけ言うからよく聞けよ。電話でも言ったとおり、ヨーロッパ各地のホールでは僕が行くと今でも時々君の話が出るんだ。『クリス・ユンは惜しいことをした。その後、彼みたいなピアニストには未だお目にかかれない』ってね。君はずっと韓国で暮らしてきたからピンとこないかもしれないが、本当なんだ。最近になって君の復帰のことを何人かに話したら、みんなすごく喜んでくれている。君がリサイタルを開くと言えばかなりのホールが手を挙げるはずだし、興行的にも黒字は間違いない。でもソウルで同じようにいくかどうか…。以前は君も韓国内で期待されてたけど、結局はアルバムを一つ出して、リサイタルを一度開いただけだろう。韓国ではその後若手のピアニストが何人も出てきて注目を集めてるじゃないか。ファンの期待度の違いを考えろ。償いだってしなくちゃいけない。君が指を痛めてピアノが弾けなくなったために、あの後予定していたリサイタルを三つもキャンセルしたんだ。チケットを買ってくれていたお客さんをがっかりさせたんだから、そっちに足を運ぶ方が先だろう? それに久しぶりのリサイタルなんだから、慣れ親しんだホールの方が君だって弾きやすいだろう? 万が一ソウルで失敗したら、その後でヨーロッパでやろうとしても何がしかのダメージは免れないぞ。」
「十数年前の韓国でのあなたの人気も相当なものだったから、私はフィリップほどには心配してないのよ。人気のある若手ピアニストは確かにいるけれど、今でもあなたのファンはいるはずだから。ただ宣伝には相当力を入れる必要があると思うけれどね。
 私はチェハがまた演奏活動に戻ってくれることがうれしいの。だからどこでやるにしても、私にできることは精いっぱいやるつもりよ。」
「二人ともありがとう。フィリップの言うことももっともだと思う。でも最初のリサイタルだけはソウルでやらせてほしいんだ。」
「どうしてもソウルで家族に聞かせたいのか?」
「ああ。もちろんイナがジョーンズ博士を紹介してくれたこと、フィリップがずっと僕のことを気にかけていてくれたことには本当に感謝している。でも僕の家族や両親、ウニョンのお母さんたちがいてくれなかったら僕は到底ここまで来られなかった。それに子どもたちにこれからの僕の仕事をちゃんと見せておきたいんだ。本格的に演奏活動を再開したら留守にすることも増えるから、子どもたちが不安がるといけないだろう?」
「まあ、それもわからないじゃないけど…。」
「それにこの十年ずっと韓国で暮らしてきたから、今自分がいるところで始めるのが自然だとも思うんだ。僕も若手の演奏は聴いているけれど、彼らに負けない演奏をする自信はある。昔の実績に頼らず、今の自分の演奏で勝負したいんだ。」
「ここまで言われたら仕方ないわね。チェハの意思を尊重しましょう。いいわね、フィリップ?」
 フィリップは不承不承頷いた。
「じゃあ、具体的な話に入るわよ。チェハは何月頃を考えているの?」
「そうだな、四月か五月。三月でも大丈夫だけど。」
「どこか希望のホールはある?」
「いや、別に。親子鑑賞室があるところならどこでも。それがないと下の子を連れて行けないからね。」
「今はソウルならたいていのホールに親子鑑賞室はあるはずよ。早速ソウルの本社に連絡して空き状況を調べてもらうわ。じゃあ時期は一応四月ということにして、その前後も調べてもらおうか。」
「四月なら十五日の土曜日ってどうかな?」
 カレンダーを見ながらスホが言った。
「四月十五日って、何か特別な日なの?」
「いや、今ふっと思いついたんだ。」
「そうなの? わかりました。日時と場所が決まったらすぐにポスターやチケットの手配、マスコミへの通知を始めるから、チェハ、忙しくなるわよ。写真撮影やインタビューの日時の連絡先は自宅でいいのね?」
「ああ、電話でもファックスでもメールでも OK。」
「それからステージネームは『クリス・ユン』を使うのね? 韓国では『ユン・ジェハ』の方が知られていると思うけど、あなたはもう『チェハ』の名前は使いたくないのよね?」
「使いたくない、というより、もう使うべきじゃないような気がするんだ。スホに戻った時に『チェハ』という名前はあの子に返したから。もちろん君たちや昔の知り合いが僕のことを『チェハ』って呼ぶのはかまわない。でも僕自身がまた仕事に使っていいのかな、って思うんだ。『クリス・ユン』を名乗ることは両親も承知して、喜んでくれてるよ。」                                                                        今では幼かった頃のチェハの思い出話をしたり、二人で連れ立ってチェハの墓参りに行くようになったミョンフンとチスクを思いながら、スホは言った。
「わかりました。ただリサイタル会場と日時が決まればマスコミにも通知するけど、その時には念のために『クリス・ユンはかつてのユン・ジェハだ』って伝えるわよ。いいわね、チェハ?」
「ああ、もちろんだ。」
「ところで、プログラムはいつ頃決まるかしら?」
「だいたいは決めたけど、後半がまだ詰め切れてないんだ。弾きたい曲はたくさんあるけど全部ってわけにもいかないからね。決まり次第、連絡するよ。」
「よろしくね。楽しみにしているわ。じゃあフィリップ、今日のところはこれでいいかしら?」
 フィリップが頷くと、イナは手早く書類をまとめながら言った。 
「チェハ、やっぱり来てもらって良かったわ。あなた、もうすっかり演奏家の顔になってるわよ。いい演奏会にしましょうね。私も裏方としてベストを尽くします。久しぶりにゆっくり話もしたいけど、私は次の仕事があるから失礼するわ。」
「そう。じゃあ僕はまだ時間があるからチェハをホテルまで送るよ。」
「ありがとう。じゃあイナ、後のことはよろしく。」
「ええ。ソウルのホールの状況がわかったら、すぐに連絡するわね。」
 イナはスホとフィリップを送り出すと、忙しく働く社員たちの目を避けるように、ちょうど空いていた応接室に飛び込んだ。二人の前では平静を装っていたが、復帰リサイタルの打ち合わせを始めて間もない頃から、イナは様々な思いが心の奥からこみ上げてくるのを感じていた。十年前にスホが韓国に戻ってからもイナは仕事の傍ら彼の手を治す方法を探し続けずにはいられなかった。そしてようやくそれを探し当て、彼が治療を始めてからは演奏家としての彼の復帰をひたすらに祈り続けてきたのだった。この十年間にウィーンでの事業は少しずつ大きくなっていたが、彼女の心の中には時間の流れが止まってしまったかのように思われる部分があった。でも再びステージに立つ準備をして、十年ぶりにこのウィーンに戻ってきた彼の姿を見て、イナは感無量だった。
 彼が再び演奏活動を始めたとしても自分のしたことが消えるわけではなかったし、彼の演奏家としてのブランクは消しようもなかった。でも彼の復帰への道筋を用意することでほんの少しでも償えたえら…。そう思いながらイナは窓辺に立ち、降りしきる雪をしばらくの間、眺めていた。

 
 フィリップは再びスホを車に乗せると、
「しかし君の頑固も相変わらずだ。」
と笑い、スホは
「すまないね。いろいろ心配してくれてありがたいと思っているよ。」
と、素直に頭を下げた。
「はるばるウィーンまで来ても君の心は動かなかったかい?」
「いろんなことを思い出したよ。前にここにいた頃は、韓国のことは心の奥に押し込めて、君にすら自分の本当の名前も言えずに親父を恨み自分を責め続けていた。ピアノをやめて、スホに戻って自分の家族を持って韓国で暮らしていた僕が、また君と組んでピアノが弾けるようになる。またここでリサイタルを開くこともあるだろう。そのことが本当にありがたいと思えるよ。ソウルでのリサイタルを成功させたら、あとはどこへでも行く。また君と仕事ができるんだ。困らせるようなことはしないよ。」
「GOOD。だったらウィーンに戻って来い。」
「ウィーンに? 本拠を移すってことかい?」
「そうさ。さっきも言ったように君を覚えている人は本当にたくさんいるんだ。それに僕もこっちの方が仕事はしやすい。」
「う~ん、僕一人じゃないからね。さっき『どこへでも行く』と言ったのはこっちでリサイタルを開くことがあれば、という意味なんだ。」
「そう。でも前向きに考えて。君はヨーロッパで演奏した方がいいと思うんだ。」
「わかった。でも、今はとにかくソウルでのリサイタルに集中したい。後のことはそれからだ。こっちで暮らすとなると家族にとっても大変なことだから、よく考えないと。」
「OK 。ところでなぜ四月十五日なんだ?」
「ヘジンの誕生日なんだ。ソウルに出るにあたって一番辛い思いをさせたんだけど、今ではヘジンは僕のこと応援してくれてるんだ。だからその日にできたらいいプレゼントになるんじゃないかと、さっき話しててふと思ってね。もちろんホールが空いてなければ仕方ないけど。」
「そうだったのか。子どもの頃の記憶は後々まで残るから、辛い思い出は少しでもやわらげてやれたらそれに越したことはないよね。君もすっかりいい父親になったな。」                                                                         フィリップのその言葉にスホは笑いながら首を振った。
「いい父親かどうかはわからない。でもフィリップ、子どもっていいもんだよ。」
「そう?」
「ああ。存在そのものが励みになるんだ。他の誰に励まされるよりも頑張ろうと思える。だから子どもたちに今の僕の最高の演奏を聞かせてやりたい。」
「そう。」
 フィリップは頷くと、しばらく無言で車を走らせた。
「写真で見るとヘジンとヘヨンは君によく似てて、末っ子のヘヒャンはウニョンに似てるね。みんなそれぞれ可愛らしい。」
「そうだな、」
 スホは穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「確かにヘヒャンはウニョンに似てるんだけど、ウニョンはヘヒャンのこと、亡くなったお母さんに似てるって言うんだ。笑った顔の目元がね。ヘヒャンを見てると、お母さんに会えたような気がするんだって。ヘヒャンは三人の中で一番の腕白坊主でね。好奇心の塊で何にでも触りたがるからちょっとでも目を離すとすぐに物を壊すわ、散らかすわ、上の二人がピアノを弾きだすと飛んできて一緒に弾こうとして邪魔するわで、その度に外へ連れ出さなきゃいけなくてウニョンも大変なんだけど、ヘヒャンに振り回されながらも癒されてるみたいだ。この間も『お母さんは早くに亡くなってしまったけれど、お母さんの命はちゃんと子どもたちに受け継がれているのね』って、ヘヒャンの寝顔を見ながらしみじみと話してたよ。」
ウニョンはこの年の春、亡くなった母ヘスンと同じ年になり、それまで以上に母親のことを思い出すらしくよく母のことを話題にしていた。そしてその度に母が自分にしたかっただろうことを、自分はこれからも元気に生きて子どもたちにしてやりたいと言い、スホも二人で子どもたちを大事に育てようと話すのだった。
「そう。いい話だね。命が受け継がれてウニョンはお母さんに会えたんだ。じゃあ次は僕がママに会う番だ。チェハ、やっと見つけたんだよ、僕と一緒に生きていってくれる人。」
「えっ?」
 思いがけないフィリップの言葉にスホが驚いて顔を上げると、
「このことも話したくて来てもらったんだけど、どう切り出そうかとさっきからずっと迷ってたんだ。ああ、やっと話せてすっきりした。」
とフィリップは笑った。
「おい、本当か?」
「本当、本当。十年かかったよ。僕が人生最大の失恋をしてから十年。僕にはもうパートナーが見つからないのかと思ったこともあったけど、やっと見つけた。」
「そうか…。それはおめでとう。で、どんな人なの?」
「音楽雑誌の記者で、僕が担当しているピアニストに取材に来たんだ。」
「そう。で、また猛烈にアプローチしたんだな。」
「いや、そうじゃないんだ。もちろん第一印象は悪くなかったよ。話し方に品があって、穏やかで優しい感じだったんだ。でも口数が少なくておとなしいから、正直それほど気になる人じゃなかったんだ。それがある日、仕事の後で雑談してたら、何と彼女、君のファンだったことがわかってさ。」
「本当かい?」
「ああ。それで僕が君と同級生で親友だったこと、以前君のマネージャーだったことを話したら、彼女の方が君の話を聞きたがったんだ。それで彼女に頼まれて仕事以外でも会うようになって…。」
「お前、彼女にサービスするつもりでいろいろと話して聞かせたのか?」
「馬鹿言え。相手が誰であっても君のことをそんなふうに他人に話したりするもんか。それに彼女は興味本位であれこれ尋ねたりしない。取材相手にちゃんと敬意を払うし、聞きたいことをきちんと整理して丁寧に質問してくる立派な記者だよ。真面目に君のことを聞きたがってるのがわかったから、僕も彼女になら話してもいいと思ったんだ。記事にはしない、という約束でね。
 君との思い出を話すのに三回会ったんだけど、彼女と話していると不思議と気持ちが安らぐ、というか心があったかくなるのを感じたんだ。それで終わりにするのが何だか勿体ない気がして、それから二人で食事をしたり一緒にコンサートに行ったりするようになった。会うたびに彼女との時間が僕にとって大切なものに感じられるようになってきた。彼女は聞き上手だし、物の考え方や感じ方がとてもよく似ているから一緒にいると安心できるんだ。
 最初のうちは学校時代のことやマネージャーとしての思い出を話してたんだけど、いつの間にか僕の子どもの頃のこと、両親のこと、韓国のおじいちゃんやおばあちゃんのことも話してた。彼女、しっかり聞いてくれたよ。
 彼女は十一歳からお父さんの仕事でソウルに六年間住んでたんだ。だから韓国語も日常会話は十分こなせるし、韓国人の友だちもいて一部の韓国人が僕みたいなハーフに厳しいこともよく知ってる。だからいっぱい説明しなくても僕の気持ちをわかってもらえるんだ。僕にとってこれ以上の人はないよ。」
「そう。そうだったのか。本当におめでとう。で、式はいつ?」
「六月なんだ。君も来てくれるかい、ウィーンまで?」
「ああ、喜んで。」
「良かった。彼女も喜ぶよ。君の復帰リサイタルには取材も兼ねて行くって言ってたから、その時には紹介できる。急な出張が入って、今はウィーンにいないんだ。」
「それは残念だなあ。韓国に来られるんなら安東(アンドン)のおばあさんにも紹介するんだろう?」
「安東にはもちろん連れて行くよ。おばあちゃんにもママにも紹介したいから。君のリサイタルが終わったら二人で旅行しようと思ってる。彼女、韓国には僕より詳しいからね。韓国が大好きで韓国は自分の第二の故郷だって言ってるよ。僕には本当に申し分ない人だって、父さんも喜んでくれたよ。」
「そうかい、それは本当に良かった。ウニョンも喜ぶよ。最近、安東のおじいさんはどうなの? 相変わらずかい?」
「ああ、相変わらず。でもおばあちゃんの話ではだいぶ軟化してきてるって。僕がおばあちゃんに出した手紙をおじいちゃんが受け取ってもちゃんとおばあちゃんに渡ってるし、おばあちゃんが僕に会いに来るのも黙認してる。前に僕が訪ねて行った時に剣もほろろに追い返したから、今さら家に連れて来いって言えないみたいだよ。頑固な人だからね。でも僕がおばあちゃんに会えるようになったこと、きっとママは喜んでると思うんだ。」
「そう。おじいさんの方はもう少し時間がかかるかもしれないね。何にしても四月に君のフィアンセに会えるのを楽しみにしてる。名前は何ていうんだい?」
「マリア。マリア・シューラー。」
「どんな人? 写真、見せろよ。」
「写真は見せないよ。写真じゃ彼女の魅力は伝わらないからね。会えばどんなに素敵な人かわかるから。会える日を楽しみにしておいて。」
 そう言うとフィリップはウィンクして見せた。
 思いがけないフィリップの告白だったが、フィリップののろけ話を聞きながらスホは心が温かくなるのを感じていた。フィリップが表面上明るく振る舞いながらも、心の中に深い孤独を抱えていることをスホは誰よりもよく知っていた。だからようやく訪れたフィリップの幸せが自分のことのようにうれしかった。間もなくフィリップも自分に安らぎを与えてくれる人と暮らせる幸せ、我が子の成長を見守る喜びを味わうようになるだろう。
 これからはフィリップと力を合わせて今まで以上に頑張っていかねば、とスホは思った。演奏家としてより良い演奏をするために、そしてそれぞれの大切な家族のために。


                                                                   (to be continued)
    "SPRING WALTZ"(9) は4月6日頃に発表予定です。

SPRING WALTZ  -ドラマの後の物語-

                                                    (7) 

 統営から戻った次の金曜日、スホは午後の授業を午前中に振り替えてもらうと、昼過ぎの船で島を出てソウルのミョンフンとチスクを訪ねた。再びステージを目指すと決意した時に両親にはその思いを伝えソウルでの住まいと練習室探しを頼んでいたのだが、ヘジンの説得に手間取ったため話が進められずにいた。ようやくヘジンが引っ越しに同意してくれたので、スホはチスクがリストアップしてくれた物件を見に行くことにしたのだった。
「ヘジンが納得してくれて本当に良かったわねえ。」
 出迎えてくれたチスクの言葉に、
「ええ、本当に。ヘジンが納得してくれたのでヘヨンもよくわからないなりに一緒に行くって言ってくれました。僕は今回改めて音楽が持つ力の大きさを感じました。あれほど頑なだったヘジンの心を動かしてくれたんです。そしてその音楽をまた自分の仕事にできることが何よりもうれしいんです。」
とスホが頷くと、
「全くだ。やっと指も元通りになったんだから、思いきりやりなさい。近くに住むようになったらちょくちょく会えるようになるんだし、手助けがいることがあれば遠慮なく言うんだぞ。孫たちが近くに来るって母さんがどれだけ張り切って家を探したことか。」
 そう言いながらミョンフンも微笑んだ。
「ありがとうございます。あの、実はお父さんとお母さんにもう一つお願いしたいことがあるんです。」
「何だい?」
「僕がリサイタルを開けるようになるまで、二年かかるか三年かかるか今はまだわかりません。貯金は指の治療にだいぶ使ってしまったので、生活費が足りなくなると思うんです。それから何度かブッフバルト先生のところにも行きたいと思います。その費用を貸していただけませんか。仕事が軌道に乗ったら必ず返します。決してご迷惑をかけるようなことはしませんから。」
 スホはそう言うと、ミョンフンとチスクに頭を下げた。
「何だ、そんなことかい?」
ミョンフンは笑った。
「いずれ私たちがいなくなったら、私たちのものはお前とカングに分けることになるんだから、何だったら今お前にいくらか渡したっていいんだよ。」
「いえ、貸してください。いずれお父さんに返すんだと思うことが自分の励みになりますから。それに今まで僕にしてくださったことを思えば、いただくことなんてできません。」
「そうだよ、兄貴は十二の年からずっといい暮らしをさせてもらって、学校に行かせてもらった上にピアノまでやらせてもらったんだから、半分ずつ分けるんじゃ割が合わないよ。兄貴にはちゃんと返してもらって、後は僕が引き継ぐから心配しないでいいよ、お父さん。」
と、カングが横から口をはさんだ。
「こいつ…、本気でピアノをやろうともしなかったくせに。入試まで一年もないんだからしっかり勉強しろ!」
スホが睨むと、カングはペロッと舌を出して自分の部屋へ逃げてしまったが、
「まあ、金のことはお前の気の済むようにすればいいさ。私たちはお前がまたステージに立とうとしていることがうれしいんだ。必要な時にはいつでも言いなさい。」
とミョンフンは笑いながら言った。
 翌日、スホはチスクが選んだ物件を見て回り、自宅と練習室を決めた。そして日曜日に青山島へ帰ると、ウニョンと相談しながら本格的に引っ越しの準備に取り掛かった。青山島の家に残す物、ソウルに運ぶ物、ソウルで新しく買う物をリストアップし、次の週末にはウニョンと子どもたちも一緒にソウルに行って新しい家を見、差し当たり必要な家財道具を買い揃え、スホは自分の練習用のピアノを探した。引っ越しは五月一日に決まり、スホは四月末日での退職を正式に願い出ると新生活の準備に没頭した。彼にとって真剣勝負の始まりだった。彼の眼はただ未来を見つめていた。音楽への熱い思いを胸に抱き、再びステージに立つ自分の姿を頭の中で思い描きながら、彼は着々と準備を進めた。


 引っ越しの準備をほぼ終えたある日のこと、スホはウィーンのフィリップに電話をかけた。スホがピアノを止めた後、フィリップは以前マネージメント修行をしていた大手の音楽事務所に入って忙しく働いていたので電話で連絡を取るのは容易ではなかったが、この日フィリップは運良く一度で電話に出てくれた。そして久しぶりの連絡を喜ぶフィリップに、スホは再びステージを目指すこと、そのために近々ソウルに引っ越すことを伝えた。
「それは良かった。手の治療を始めた時からいつそう言いだすかと思って楽しみにしてたんだ。」
「ありがとう。とにかくこれから死に物狂いだ。家族の生活もかかってるからね。」
「本当だ。しっかり頑張れ。ところでチェハ、復帰にあたってマネージャーの当てはあるのかい?」
「まさか。まだ二年かかるか三年かかるかわからないんだぞ。」
「馬鹿だなあ。わかってからじゃ遅いんだ。今、決めろ。君の返事次第でこっちは仕事を整理する心づもりをしなきゃいけないんだ。わかるか?」
「仕事の整理って、フィリップ、お前…。」
「君さえ良かったら、また一緒にやろうって言ってるんだ。今まで何人かのアーティストのマネージメントをしてきたけれど、君ほどやりがいのある人はいなかったからね。結果的にはイナに先を越されたけど、僕だって何とか君の指を治せないかといろいろ調べてたんだぞ。いつかもう一度君と仕事をしたい、という思いを捨てられなかったから…。」
「フィリップ…。またいつか君と一緒にやれたらって僕も思っていたんだ。自分の目途が立たないうちは言い出せなかったんだけど、おかげでますます頑張れそうだ。ありがとう。」
「よし、じゃあまず目標を決めよう。二年後でどうだ。二年後に演奏活動を再開できるよう頑張れ。僕もそのつもりでいるから。もちろん実際にやってみて二年では難しそうなら、またその時に考え直せばいいさ。無理をすることはないからね。とにかくベストを尽くせ、チェハ。ああ、何だかすごく楽しみになってきた。そうだ、イナには報告したのか?」
「いや、これからだ。まずは君に、と思ったから。」
「それはありがとう。じゃあイナにも早く連絡してやって。喜ぶから。それからウニョンによろしくね。」
「ああ、ありがとう。じゃ、また。」
 スホは受話器を置くと、続いてイナのオフィスに電話をかけた。イナに連絡するのは昨年クリスマスカードで指の感覚がかなり戻ってきたことを知らせて以来だった。電話に出て来たイナは、これから大事な打ち合わせがあるのであまり時間は取れないんだけど、と謝ったが、スホの決意を聞くと、
「そう、それは良かったわ。おめでとう、チェハ。うれしいわ。本当にうれしい。」
と心底うれしそうに言った。
「いや、君のお陰だよ。ありがとう。ジョーンズ博士を紹介してくれたこと、忘れないよ。」
「そんな…。お礼を言ってもらえるようなことじゃないわ…。」
イナはしばらく言葉に詰まっていたが、やがて
「じゃあリサイタルを開く目途が立ったら連絡してね。あなたの復帰リサイタルはお手伝いさせてほしいと、ずっと思っていたの。」
と明るく言った。
「ああ、ありがとう。その時はよろしく。」
 スホは電話を切ると、窓を開けて外の景色を眺めた。フィリップに言われた「二年後」という言葉が現実味を帯びて彼の前に迫ってきた。
「そうだ。」
 彼はあることを思いついて、優しく微笑んだ。二年後には長女のヘヨンが小学校に入る。今回、統営に連れてもらえなくて不満気だったヘヨンに、彼はヘヨンも小学生になったら必ずコンサートに連れて行くと約束したのだが、自分の復帰リサイタルを娘の初コンサートにしてやれたらあの子は喜んでくれるだろうか、と思ったのだ。彼は海を眺めながら二年後のリサイタルを想定して、それに至るまでの道のりを頭の中に描き始めた。


 五月一日、スホたち一家はソウルへ運ぶ荷物を運送業者に委ねると、港へと向かった。そこにはポンヒを始め、一家と親しくしていた島の人々や小学校、中学校の生徒と先生たちが見送りに来ていた。別れを惜しむ人々に、スホは
「夏休みにはまた帰ってきますよ。これが最後じゃないんですから。」
と笑った。島を捨てるわけではない。ただここでは叶えられない夢を実現させるため、しばらく留守にするだけなのだとスホは思っていた。またここで暮らすのは、ずっと先になるかもしれないが、いつでも家族そろって故郷に帰ってこられるよう家は残した。彼は見送りの人々に「行ってきます」と告げると、ウニョンと子どもたちと共にソウルへと旅立った。


 新しい生活が始まった。スホは毎日、朝食をすませると近くの小学校に通うヘジンの登校を見守り、ヘヨンとヘヒャンを保育園に送ってから練習室に向かった。彼らの住まいは特に交通量の多い地域ではなかったが、行き交う車の数は青山島の比ではなく、ヘジンとヘヨンが車に慣れるまでは気をつけてやらねば、とスホとウニョンは話し合ったのだった。ウニョンは引っ越し後の家の片づけをすませると、新しい学校や保育園に通い始めた子どもたちの様子に気を配りながら、またアクセサリー作りを始めるべく準備に取り掛かっていた。
 引っ越しから二週間ほど経ったある日のこと、ウニョンが昼食の準備をしているとミジョンがヤンスンからの海苔巻きを持って、ひょっこりと訪ねてきた。
「これ、お母さんから。どう、少しは落ち着いた?」
「何とかね。親も子も少しずつ。」
 ウニョンは笑いながら答えた。
「でもやっぱり引っ越しって大変ね。島では近くに住んでいる人はみんな顔見知りだったけど、ここは知らない人ばかりだし最初は私もまごまごしたわ。おまけにアパート(注:日本のマンションに相当)で暮らすのも初めてだし。今までみたいに自由に庭に出られないから子どもたちも体を動かせなくてつまらなそうにしてるわよ。ヘヒャンは急に周りの景色が変わったから、目をパチクリさせながら家じゅう這って探検してた。学校や保育園も子どもの数がこっちは桁違いに多いから最初はみんなかなり面喰ったみたい。ヘヨンは今ではこっちの方がお友だちがたくさんいて楽しいって言ってるけど、ヘジンは島の言葉を笑われて随分悔しい思いをしてたわ。」
「いじめられたの?」
「ううん、そんなに深刻なものじゃなかったの。ありがたいことに担任の先生が海南郡(注:朝鮮半島南端地域)出身の方で、最初からヘジンのこと気にかけてくださっていたの。だからヘジンが授業中に笑われたり休み時間にからかわれてるのに気づくと、すぐに注意してくださったんだって。生まれ育った土地の言葉はとても大切なものなんだってクラスの子どもたちに話してくださって、ヘジンにも『標準語も少しずつ覚えた方がいいけど、ふるさとの言葉は忘れちゃだめだぞ』って、休み時間には方言で話しかけてくださったりね。本当に助かったわ。」
「良かったね。でもこっちのご両親はソウルの方だし、子どもたちも標準語には慣れてるよね。すぐ覚えるよ、きっと。」
「だといいけど。」
「スホ・オッパは練習三昧なの?」
「そう。もう後には引けないから目つきが違ってる。でも別に練習室を借りたからオンとオフがはっきり切り替えられていいみたいよ。夜はコンサートに行くこともあるけど、たいていは島にいた時と同じように子どもたちと遊んでるわ。週末には子どもたちと出かけて夜に集中して練習したりね。そしてヘジンとヘヨンにはピアノを教えてる。ヘジンが音楽祭に行ってすごく刺激を受けたみたいで急に練習熱心になっちゃって…。音楽祭で聞いた曲の楽譜やCDを出せってせがんでもう大変なの。まだ弾けっこないんだけど、いつか自分で弾けるようになりたいんだって。ヘジンが何かやりだすとヘヨンも一緒にやろうとするから大騒ぎよ。でもオッパにはいい気分転換なんでしょうね。」
「でもウニョン、えらいよ。オッパが成功するって保証はないのに、よく思い切ったよね。」
「これ以上我慢してほしくなかったのよ。オッパは今まで自分の好きなように生きられたことなんてなかったんだもの。」
 チェハとなって海を渡ったのも、怪我をおしてコンサートを続けたのも自分のためだったのだとウニョンは切ない気持ちで思い返した。
「そうか…。そうだったね。」
「ええ。子どもの頃はおじさんに振り回され続けて、チェハだった時は苦しみ続けて。スホに戻って結婚してからオッパの心がどんどん柔らかく伸びやかになっていくのがわかって本当にうれしかったけど、その一方でピアノが弾けない辛さと一人で戦っていたわ。だから思う存分ピアノが弾けるようになりますように、って私ずっと祈ってたの。あ、帰ってきたわよ。」
 昼食に帰って来たスホは、ミジョンを見ると
「やあ、いらっしゃい。」と笑顔を向けた。
「お帰りなさい。オッパ、フィリップからメールが来てるわよ。」
 ウニョンの言葉を聞くと、スホは早速パソコンを覗き込んだが、やがてクスリと笑った。
「フィリップ、何て?」
「うん、仕事でドイツに行った時にブッフバルト先生に会ったから、『クリス・ユンがまた演奏活動を始めます。彼に力を貸してやってください。一日も早くステージに立てるようにしてやってください』って頼んでおいたぞ、って。」
「それで?」
「先生、驚いてたって。でも一通りの事情を聞いて『クリスは自分のやるべきことはわかっているはずだから、僕の出番はないだろう。でも久しぶりに彼のピアノが聴けるなら楽しみだ』って笑ってたらしいよ。」
「何だ、オッパ。自分で先生に連絡してなかったの?」
とのミジョンの問いに、スホは
「まだ先生に聞いてもらえるレベルじゃないからね。いずれその時が来たら、と思ってたんだ。」
と答えた。彼のウィーン芸術大学時代の恩師、ブッフバルト教授は故郷の音楽大学から招聘を受け、今はそちらで学生の指導に当たっていた。いずれスホは恩師を訪ね、自分の演奏を聞いてもらおうと考えていたのだった。
「フィリップは時々こうやってメールをくれては励ましてくれるのよ。さあ、ごはんができた。ミジョンも一緒に食べていって。」
「そうもしていられないのよ。今夜も劇場のお弁当の注文が入っているからそろそろ帰らないと、時間までに間に合わないの。」
「あら残念。でもサンウも親孝行してるわよね。大学に戻らないでミュージカル俳優になった時にはお母さんカンカンだったけど、あの子のファンでお店のお客さんが増えたんだし、サンウが劇場で俳優さんたちや裏方さんたちのお弁当の注文を取ってきたお陰でお店を大きくできたんだものね。」
「そうなの。サンウって結構上の人たちに可愛がってもらえるから助かってる。血の気が多くて喧嘩っぱやいところもあるからヒヤヒヤものだけど。」
「でも昔に比べたら穏やかになったわよ。何と言っても二人の子どものパパだもの。」
「まあね。じゃあ、帰るわ。また子どもたち連れて顔見せに来て。お母さんも喜ぶから。スホ・オッパ、頑張ってね。」
 そう言うと、ミジョンは慌ただしく帰って行った。


 スホは毎日懸命に練習に励み、一曲一曲を丁寧に仕上げて確実に弾ける曲を増やしていった。それは一人きりの孤独な作業だったが、長い間思い通りにピアノが弾けずにいた彼には、むしろ新鮮で幸せな時間だった。時折フィリップがメールや電話で様子を尋ねて励ましてくれることもうれしかったし、大学時代の恩師であるブッフバルト教授を訪ねて演奏を聞いてもらうことも励みになった。こうして壁にぶつかったり、それを打ち破ったりを繰り返しながら一歩一歩歩みを進めていくうちに、いつしか一年半の月日が過ぎていった。

                                                               (to be continued)


    次回、"SPRING WALTZ - ドラマの後の物語-" (8) は、3月21日発表予定です。

プロフィール

そよかぜおばさん

Author:そよかぜおばさん
韓国ドラマ「春のワルツ」で描かれなかった15年間に興味を持ち、何とかこの空白を埋めてみよう!と皆さんからアイデアを頂きながら進めてきました。ドラマ後の物語(ピアニスト クリス・ユンの復活)も同時進行させています。「空白の15年」はまだ6年ほど残っていますが、「復活編」はひとまず完結いたしました。


これとは別に趣味のクラシック音楽の話、印象に残った本やテレビ番組、映画の感想など思いつくまま気の向くままにお話ししたいと思います。

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